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北海道胆振東部地震から5年

 もう全国ニュースでは触れられることすら無いけれど、忘れられない日。

 2018年9月6日 午前3時7分。
 北海道胆振東部地震発生。

 当時私が暮らしていた街は、北海道のオホーツク海側。私が揺れを感じて時計を見た時の時刻は3時8分だった。
 激しい揺れでは無かった。けれど、長い揺れだった。
 これは、震度1や2では無いだろう。震度と震源を確認しようと布団の中でスマホを開くと、住んでいた街は震度3だった。
 けれど、北海道内で震度6強、との表示。
 私は起き上がった。
 当時の勤務先は、大手電力会社の関連会社だった。北海道内で震度5強以上の地震が発生した際にはすぐに出社することが、社内の災害対応マニュアルには定められていた。
 とはいえ、北海道内、特に十勝や釧路周辺の道東エリアはもともと地震が多い地域。最大震度5強でも特に被害は無かったという例も過去には多く、出社対応はケースバイケースでもあった。
 外は、まだ薄暗かった。
 とりあえず起きて、パソコンで詳しい状況を確認しよう。(当時、私の部屋にテレビは無かった)
 そう思った私は、部屋の電気のスイッチを押した。

 つかなかった。

 とっさに、これはマズイと思った。
 通常ならば、震度3くらいで停電するはずは無い。

 いつも枕元に置いていた、乾電池式のラジオを付けた。ラジオと懐中電灯を枕元に置くのは、東日本大震災以降ずっと続けていたことだった。

 ラジオは、北海道全域が停電していることを伝えていた。

 私はすぐに着替えて会社に向かった。信号の消えた国道を運転するのは、初めての経験だった。



 午前4時半出勤。非常用電源で電話を復旧させてからの、鳴りやまぬ罵声。

 仕事の後に立ち寄ったコンビニで、会計が遅いと店員を怒鳴りつけていた中年男性の姿。

 ガラガラの棚に唯一残っていた、トムヤムクンヌードル。

 満天の星空。

 あの日からの2日間を振り返り言葉にするのは、今もまだ難しい。
 ただ、あの経験が、その後の自分の人生を変えた事だけは、間違いないと思う。
 災害なんて、無い方が良かった。絶対に。
 その気持ちは今も変わらない。
 けれど、あの日までの自分よりも、今の自分の方が好きだと私は胸を張って言える。
 そして、そう言える自分であり続けたいと思いながら、北海道を離れた今も働いて暮らしている。



 北海道胆振東部地震から2年後の、2020年の暮れのある日。
 私のもとに、宅急便が届いた。
 北海道日本ハムファイターズのファンクラブからだった。
 ファンクラブにはずっと入っていたものの、その時期、特に何かを注文した記憶は無かった。
 不思議に思い開けてみると、入っていたのは、手作りの可愛いしめ縄だった。

 それは、その年に私が北海道日本ハムファイターズのファンクラブを通じて初めて参加していた、北海道胆振東部地震の被災地への支援活動「ふぁい田 ATSUMAプロジェクト」の御礼にと、厚真町の上厚真小学校の児童が作ってくれたものだった。

 しめ縄には、作ってくれた子からの、御礼のお手紙も添えられていた。

 手紙を読んで、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになるくらい泣いた。



 今日もYahoo等の全国ニュースのサイトでは、北海道胆振東部地震について触れられてはいない。

 厚真町で震度7を観測したことも
 大規模な土砂崩れ等により、40名以上の尊い命が奪われたことも
 管内のほぼ全域で電力が止まる「ブラックアウト」が発生したことにより、お二人の方が亡くなられていることも

 まるで意図的に、無かったことにされているかのようだ。


 けれど、私は決して忘れない。
 これまでも、これからも。

https://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/saigaiji/saigaiji_201901.pdf


 このnoteが、一人でも多くの人に届きますように。

 そう願いながら、私は今日も、自分自身の仕事を頑張ろうと思う。
 たとえ罵られても、見下されても、そんな人をも含む「誰か」の暮らしを守るために。
 電気から水道へと仕事場は変わっても、その思いは、決して忘れずにいようと思う。

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