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ふるさと考

東京の片隅で育ち、今も東京の端に住んでいるから、ふるさとがない。かつて、夏休みに帰郷する人の話を聞いて、うらやましい気持ちになった。「ふるさとがあっていいですね」と言うと、「お金がかかるから大変だよ」とのこと。電車賃やお土産代等で出費が多くて大変だと聞いたら、憧れの対象だったふるさとが急に現実的な存在に変わった。夢のようにはいかないのが現実ということだ。それでもふるさとがないという淋しい気持ちは変わらなかった。

自分にとってふるさととは何だろう。
辞書を見れば、ふるさとは、生まれ育った土地の意味の他に、荒れはてた昔の都、昔行った場所、旅先から見た自分の家といった意味がある。これらのふるさとは、今の居る場所に対して遠い場所である。昔の人は、かなり広い意味でふるさとをイメージしていたようだ。

日本人の持つふるさとのイメージは、『ふるさと』の歌詞にあるような、山や川のある風景であると言われる。白砂青松という日本の代表的な風景には、ふるさとのイメージがない。山や川の近くには、民家と人の生活を感じるからだと思うが、もしかしたら『ふるさと』の歌が心に染みついているだけなのかも知れない。たしかに文芸が心の風景を作り上げたということは否定できない。

ふるさとは、結局は心象風景に過ぎないとも言える。ふるさとのない私は、日本人の源流にふるさとを感じる。奈良や明日香には何度か行った。日本国家の起源の場所ということに、ふるさとのイメージを抱いた。

生まれ育った土地は、今住んでいる場所から近い。近いが、時代の流れとともにその景色は変わり、子どもの頃に見た風景は遠い過去のものになっている。ふるさとは、距離だけでなく、時間とともに遠くにあるという点では、すべて心象風景である。

近くにあっても育った場所、過去に行った懐かしい場所、遠い祖先が暮らした場所、すべて私の心の中にだけに残る心象風景である。それが私にとってのふるさとである。




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