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あそぼうよ【ホラー小説・1万文字程度】#創作大賞2024

 わたしには、エミちゃんという友だちがいました。その子を含めて、わたしたちは五、六人で、中学二年の夏休みにわたしの家に集まって、順番にこわい話をすることになりました。

 言い出したのはサキちゃんで、わたしはほかの子といっしょに、いいねいいねと言ってた気がします。けれどいざ話してみると、ぜんぜんみんな怖く話せなくて、とちゅうで変な顔してふざけ始めたり、突然大きな声で、ばあ! ……なんて言って笑ったりしていました。

 けれどエミちゃんは違いました。みんなと話しているときも、笑ってはいるんですけど、でもふいに真剣な顔をして、スカートの裾をぎゅ、と持っていました。わたしはエミちゃんの、そういう仕草をどうしても見つけてしまって、見つけてしまうとわたしもやっぱり笑ってはいるんだけど、なんとなくエミちゃんのことがずっと気になって、眼差しを向けてしまいます。すると、何度かエミちゃんと目が合うようになって、なにもないはずなのに目配せしてるみたいな……何か変な感じになってきてしまって、これはもうトイレにでも行こうかと迷いはじめたとき、じゃあ次はエミの番ね! とサキちゃんが言ったのでした。

(サキちゃんがはっきり声を出すと、みんなの間でぐにゃぐにゃに行き交っていたふざけたり笑ったりする空気みたいなものがいっぺんに改まって、もう一度、そこからどんな風に始めてもいいような雰囲気になってしまうから、不思議です。)

 エミちゃんも、うん、と言って、話しはじめました。さっきまでスカートを握りしめていた手が、す、とゆるんだのを、わたしは見つめていました。


「……こわい話、っていうのとはちょっと違うかもしれないんだけど。

 あれは、もしかしたらお化けというか……幽霊だったのかもしれないな、と思うことがあって。

 ちょうど、今ぐらいの季節だったかな。わたしはまだみんなと会う前だから小学生で、その日の夜はなんだか寝つけなくて、すごく暑いってわけでもないのにたくさん汗をかいちゃったから、なにか飲もうと思って起き上がったの。

 ベッドから降りて、ドアを開けて部屋を出て、廊下のフローリングが歩くたびにぺたぺた吸いついてくるの、なんかやだなあって思いながら、リビングに行ったら、なんとなくあかるくて……いや、電気は点いてないし、みんな寝てるんだけど、ふだんは電気が点いてないと手探りになっちゃう部屋の中が、なぜだかよく見えるくらいにあかるかったんだ。

 それでね、リビングのまんなかに、階段があったの。屋根裏につながる梯子みたいなのじゃなくて、どっしりした木の階段が、天井に続いてて。わたしの家、マンションの三階だし、真上には四階の部屋があるから、屋根裏なんて、あるわけないのに。

 わたし、しばらく立ってたんだけど、少しずつ、その階段に近づいていった。なんだか吸い寄せられてくみたいに、一歩ずつ、ぺたり、ぺたりって歩いたの。さっきまで乾いてたはずの喉も、そのときにはもう気にならなくなってて、その代わりになんとなく胸の辺りが、おもくなっていくような気がした。息もなんだか、しづらくて。それで見上げると、まるで今までもずっとそこにあったみたいに、天井に四角い穴があいてたの。

 なんで怖がったりしなかったんだろう。気づいたらわたしはもう、階段の一段目を踏みしめてた。ちょっとふかっとして、湿っていて、足のうらが包まれるような感じがした。知らない生きものの肌みたいに生温かかった。

 一段、もう一段、って上りながら、きゅうに崩れたりしないか、確かめながら進んだ。……そうやって慎重に、ゆっくり進んでいれば、何かあってもすぐに戻れると思ってた。そしたら突然、

 ぎ、

 ぎぎ、

 ぎぎぎぎぎぎぎ!!

 下からぜんしんが突き上げられて、わたしは何にも分からないまま、床だか壁にぶつかった。う、うう……って顔をあげると、うすぐらくて、でも、目を凝らせば見えなくもないくらいのあかるさで、わたしはそんなに広くない部屋だなあ、とか、そうか……さっきのは階段がばくんって閉まっちゃったのか、とか、なんでだろ、やっぱりあんまりあわててなかったんだけど、息をするたびに、あたまがどんどんぼんやりしてきて、そのぼんやりしたわたしの正面の……すこし離れたところに、とにかく、誰かいる、って気づいたの。

 気づいて、見ようとしたら、だんだんはっきり見えてきて、それは女の子みたいだった。わたしよりもずっと小さくて……幼稚園くらいなのかな、ちょっとうつむいていて顔は見えないんだけど、髪を二つ結わきにして、ふわっとした青っぽいワンピースを着ていて、ぺたんって座りこんでるみたいだった。すん、すん……って音が聞こえて、あ、泣いてるのかな、ってわたしは思って、迷ったけれど、もう少し近くに行って、話しかけてみようかなと思ったの。そしたらね、また、

 ぎ、

 ぎぎ、

 ……って、わたしが女の子のほうに行こうとすると、その場所ぜんぶが歯を食いしばってるみたいに軋んで、わたしは耳を塞ぎたいのに塞ぐこともできないまま、そこから一歩も動けなくなって……そのときね、女の子がわたしにこう言ったの。

『……あそぼうよ』

 って。」


 ――そこでエミちゃんが、ふううう……と息をついて、もうすっかり氷の溶けた麦茶のグラスに手を伸ばして、ゆっくりと口に含みました。エミちゃんのおでこや首すじから汗が伝っているのを見て、わたしも汗をぬぐいました。みんな息をのんでいたのか、くったりした様子で、麦茶には口をつけませんでした。

「……あの、エミ。その話、そこでおしまい?」

 そう言ったのは、やっぱりサキちゃんでした。サキちゃんの声も、いつもより小さかった気がしました。

「あ、ううん。でも、えっと……」

 エミちゃんは、窓のほうを見て、それからわたしたちを見つめました。窓の外は、もう夕陽がほんのり残っているだけになっていて、あとはほとんどくらやみです。

「……今日は、帰ろっか」

 サキちゃんは、ちょっと笑いながら、食べたものや飲んだものの片付けを始めました。みんなも、うん、とか、そうだね、なんていいながら、身支度をはじめて、それから誰ともなく、エミちゃんなんかすごかったよ、とか、まるでそこにいるみたいな気持ちになっちゃった、ありがとねって、ぱらぱら散りばめるみたいにエミちゃんに声をかけていました。

 エミちゃんは、うん、って頷きながら、またそろそろとスカートの裾を、ぎゅ、っとしていました。わたしはやっぱり、そのことに気づいてしまって、なんとなく目を伏せていました。


 ・●・●・


 玄関でみんなを見送ったあと、わたしはしばらく明かりもつけずに、その場に立っていました。外の、夏っぽい夜のにおいがまだ残っていて、その匂いをかぎながら、エミちゃんのしてくれた話と、エミちゃんのことを考えていました。あそぼうよ。それから、スカートの裾をぎゅ、っとしてたエミちゃん。

 どのくらいそうしていたのか分からないけれど、もう、どうにも足が軋んできたので、ペタリ、ペタリと、わたしはゆっくり廊下を歩いて、じぶんの部屋に戻りました。
 部屋にはまだ、みんなといたときの気配というか……シャンプーとか制汗剤のかおりや、おやつで食べたチョコとかビスケットの匂いが残っているのに、誰もいなくて、なんだか静かで、落ち着かない気持ちになりました。

 はあ、とため息をつきながら勉強机の椅子に座ると、机の上に置いてあった携帯がちかちか光っていました。……メール? 手に取ると、しっとりと吸いついてくるような手触りで、メールは、サキちゃんからのものでした。


 ▷きょうはありがと。
 あの、さっきのエミの話なんだけどさ。続き、いっしょに聞いてくれたりしないかな? メールしたら、やっぱり続きがあるってエミ言ってて……でも、また集まって話すのはなんかしんどいっぽいんだ。それで、メールならいいよって。どうかな?

 メールのあて先を見ると、エミちゃんも入っていたので、もうこれは、わたしも続きを聴くメンバーに含まれてるんだって……そう決まってしまっているように感じられて、


 ▷うん、いいよ。わたしも気になってたんだ。いっしょに聴きたい。

 と、みじかく返しました。するとその数秒後にはエミちゃんからメールが来て、ぽつりぽつりと間隔を空けて、メールは送られてきました。


 ▷その子にね、「あそぼうよ」って言われたんだって分かるまで、すこし時間がかかったの。そうしたらわたしの足元に、とろとろと広がってくるというか、流れてくるものがあって、足にふれると、つめたいともあついとも思えなくって、まるで体温がそのまま流れでてるみたいだなって思った。

 ▷わたしがぼんやりしていて、返事をしないでいたからか、女の子の泣き方が、だんだん激しくなってきて、少しずつだけど足元に流れてくるなにかのいきおいが強くなってるのに気づいて、それでようやく、ああ、流れてきてるのは、この子の涙なんだな、って分かったの。

 ▷だからわたしは、いいよ、って言ったんだ。いいよ、何して遊ぼうか、って。

 ▷そしたら女の子は、ほんとう? って言って、顔をあげたの。なみだで頬がふやけてて、じゃあ、おままごと、したい、って言ったんだ。そうしたら、ふっと全身がゆるんで、わたしは動けるようになったの。部屋はもうそこらじゅう女の子のなみだの浅瀬みたいになってた。

 ▷女の子はさっそく……どこから出したのか分からないんだけど、小さな木のまな板を膝の上に置いて、濡れちゃうのもお構いなしというか、そもそも濡れてることにも気づいてないような感じで、おもちゃの木のニンジン、ピーマン、タマネギを、おもちゃの包丁で切ってくれた。ざり、ざりっていうマジックテープの音が、なんとなく懐かしかった。わたしは、上手だね、って言ったの。ほんとにそう思ったから。

 ▷はい、どうぞ。
 女の子はおもちゃのお茶碗に、ころころした野菜をいっぱい盛りつけて、わたしに差し出してくれた。
 わたしはそれを受け取って、そのときにちょっとだけ、女の子の手に触れてしまったの。女の子は、さっ、と手を引っ込めて、わたしの触ってしまった指のあたりに、ふうふうと息を吹きかけてた。
 ごめんね、とわたしはすぐに言ったんだけど、女の子は、どうぞ、と言うだけで、ふうふう、ふうふう、ってし続けていた。

 ▷いただきます。
 わたしは二本の指でお箸をつくって、ニンジンをぱくり、ピーマンをぱくり、タマネギもぱくりと食べる真似をして、おままごとなんて久しぶりだな、なんて思ってた。わたし妹いないから、ちょっとだけ、お姉さんになった気分だった。
 おいしかった、ごちそうさまでした。そう言いながら、わたしは女の子にお椀を返そうとしたの。そしたら、女の子はふうふうするのをやめて、首を傾げながら、わたしを見つめて、言ったの。

「どうぞ。

 どうぞ。

 ……残さず食べて」



 ――ねぇ。

 ねぇ、ご飯できてるよ。食べないの?

 わたしは飛び上がって、声のしたほうへ振り返りました。部屋の入り口に、母が立っていました。ぜんぜん、気づかなかった。

 うん……今、行く。わたしは、すぐにでも続きが送られてきそうな携帯を置いてリビングに行きました。どちらにしろ、ご飯中は携帯を見れないし。
 うちは共働きで、父は帰るのが遅く、母が夕ご飯を作ってくれていました。

 はい、どうぞ。

 野菜やお肉がごろごろした大きさで入ってるカレー。なんか今日疲れちゃって、細かく切るのめんどくさくてさぁ。そう言って母が笑ったので、わたしも笑って、美味しそう、いただきます、と言って食べはじめました。
 もくもくと、なんとなくいつもよりよく噛んでいると、母が、なんか湿気すごくない? 除湿かけてんのにさ。エアコン古いしボーナスで買い替えよっか。と、独り言のような感じで言ったので、わたしもまたもくもくと頬張っては、うん、ほだね、と頷いて、エミちゃんのメール、もう届いてるかな、と、ただそのことばかり考えていました。

 ごちそうさま。

 残さず食べて、部屋に戻ろうとすると、あ、デザートあるよ、ヨーグルト。そう母が言ったので、うーん、ちょっとしてから食べる、とだけこたえて、廊下を歩きました。

 ペタ、ペタ……。

 ペタ。ぺ、タ……。

 なんとなく、床の感じがいつもと違う気がしました。足の裏がひっつくというか、少しずつやわらかくふやけていくような……。

 自分の部屋に入って少しすると、鼻先や頬に水滴がついてきて、わたしそんなに汗かいたっけ、たしかに今日のカレーちょっと辛かったけど……などと思いながら、携帯を見ても着信のランプは点いてなくて、エミちゃんからのメールは、夕ご飯前のでぱったりと途絶えてしまっていました。
 そのあいだにも、わたしの耳たぶからはずっと、ぽたぽた……ぽたぽたと雫が滴りつづけていました。

 間を空けて何度か受信ボックスを更新してみたり、送られてきたメールを見返したりしていると、携帯のあかりがだんだんまぶしく感じられるようになってきて、顔を上げると電気が点いているのに辺りが薄暗くなっていて、お母さん、ねぇ、お母さん……? と何度呼んでも、返事がありませんでした。

 と、携帯の画面が、メールの着信を知らせました。見るとそれはエミちゃんからではなくて、サキちゃんからのメールでした。


 ▷ごめん

 ごめんね

 エミの話あそこで終わりにしておけばよかった

 続き 話してなんて言うんじゃなかった

 電話つながんないよ なんで

 ごめん あたし

 ごめ攣燗 カ阨e#3ゃん


 いそいでサキちゃんにもエミちゃんにも電話をかけてみたけれど、コール音も鳴りません。すると、ジ、ジジ……と蛍光灯がちらつきはじめて、ついには消えてしまい、視界には、さっきまであったあかりの名残があるだけになりました。

 お母さん! お母さんってば! わたしは携帯を手にリビングに向かいました。廊下はびしゃびしゃに濡れていて、途中足を滑らせそうになりながら、わたしは母を呼びつづけました。

 リビングに入ると、さっきまでわたしと母が向かい合って食事をしていたテーブルのあった場所に、エミちゃんの話に出てきた階段がありました。見上げると、天井に暗い穴が開いていて、その穴を見つめていると、なぜだか目が離せなくなってきて、気づいたときにはわたしは階段の一段目を踏みしめていました。ゆっくりと、誘われるように、階段を上っていこうとした、そのとき。

 ズズズズ、ズズズズ。手の中で携帯がふるえました。バイブ機能、設定してないはずなのに。

 見てみると、メールが一通、届いていました。でも、送信元の表示が壊れてるみたいに点滅していて……わたしが瞬きするたびに、それはエミちゃんになり、サキちゃんになり、それから空欄になったかと思うと、さいごには真っ黒に塗りつぶされたようになりました。

 わたしはもう一度階段を見つめましたが、どうしても気になって、メールを開きました。そのメールには、こう書かれていたのです。


 ▷いいよって

 いっては だめ

 もしもいったら


 ……サキちゃんなの?
 エミちゃんは?
 お母さん……。

 メールを見終えると、わたしはまた誘われるように階段を上りはじめて、そうだ……きゅうに、ばくんって閉まるんだったと昼間のエミちゃんの話を思い出し、身構えたのですがそうはならず、上りきったところで、ゆっくりと音もなく穴は閉じてしまいました。

 すん……すん……と、どこからか誰かが泣いてるような声が聞こえてきて、まっくらなはずの辺りに目を凝らすと、小さな女の子の姿が、だんだん浮かび上がってくるのでした。青っぽい、ふわふわしたワンピース。間違いない、エミちゃんの話の通りだ、とわたしは思いました。

 女の子の涙でできているという水面は、わたしのくるぶしくらいまで来ていて、足元に気をつけながら、女の子のほうへ慎重に歩いていきました。だんだんと近づいていくにつれて、さっきまでの怖い気持ちや、からだがふるえてきそうな不安のようなものは、ちゃぷ……ちゃぷんと水音にとけていくように、歩くたびに落ち着いてきて……まるでふつうの小さな女の子が泣いているところをわたしは見かけて、大丈夫? そう声をかけようとしてるような気持ちになるのでした。

「……あそぼうよ」

 女の子が、か細い声で言いました。わたしは思わず、口を開きかけて、その肩に手を置きたくなるけれど、せり上がってくる気持ちを飲み込んで、ぐ、と口をつぐみました。さっきの、あのメールのことを、つよくつよく思い浮かべながら、わたしはくるぶしから脛のあたりまで、ざわ……ざわと、女の子のなみだが波打つのを感じました。

「あそぼうよぉ、お姉ちゃあん……」

 女の子の泣いている声は、う……ひっく、うっ、ううう……と、嗚咽のようになり、わたしの胸の内にある肋骨を、び、びり、とふるわせはじめました。すこしでも声を漏らせば、わたしはこの子に何か言ってしまう……こんなにも苦しげに、さびしげに、しかもたったひとりでこの子は泣いていて、そのことに、わたしはどうしようもなく揺さぶられてるのだと分かりました。

 でも、女の子の泣き声は、うっ、ううあっ……わあっ、あああ! 急激に、ぐ、ああががああ! ぎゃらああざざああ! ばらああぐああ! 人の声とは思えないようなものに変わってしまって、わたしは、ぐら、と体がふらつくのを感じ、めまいに堪えながら、……いいよって、言っちゃいけないんだ……でも、じゃあこの子にわたしはなんて言葉をかけたらいいの? もう、分からない。これじゃあ、ここから出ることもできないし、たぶんもうすぐわたしは立ってることすらできなくなってしまう。どうしたら……。

 そのとき、また、ズズズズ、ズズズズ、と携帯がふるえていることに、わたしは気づきました。あわてて確認すると、画面は、表示が乱れていて、じりじり音を立てて光っていました。


 う

  し
       ろ


 と、書いてあるのが、なんとか読めました。わたしは、ぎ、ぎぎ、と軋みをあげながら身をよじって、後ろをみました。

 そこには、少女が立っていました。わたしと同い年くらいで、女の子とよく似たうす青いワンピースを着ていて、こんなに女の子が、喉を切り刻んでいるような叫び声をあげているのに、知らん顔で、手元で開いてる本のページを、一枚、また一枚とめくっていました。わたしは、なぜだか分からないけれど、はっとすべてがつめたく繋がったような気がして、それから頭にぐわあっと血が上って、一気に爆発するみたいに叫んでいました。


 お姉ちゃん――――!!


 女の子の泣き声が、ふっと止んで、少女が本から視線を上げて、女の子を見ました。はあ、と気だるげにため息をついて、本を閉じて抱えると、少女はわたしの横をさらさらと通り過ぎ、女の子に近寄って、言いました。

 ……二度とあたしの本に落書きしないでよね。

 部屋中に広がっていた女の子の涙が、一瞬のうちに凍りついて砕けてしまうような、容赦のない声でした。女の子も、固まってしまったように動かなくなって、ただ呆然と、こくん、と頷きました。

 少女は、女の子の手を掴んで立ち上がらせると、わたしからどんどん遠ざかるように歩いていきました。そして、わずかにこちらを振り返り……いえ、女の子に微笑んだのでしょうか、少しだけ、笑ったようにみえたのでした。


 ・●・●・


 わたしは、遠ざかっていくふたりの姿を見つめながら、暗い部屋のなかで、ぺたんと座り込んでしまい……気づいたときには、そこはいつものリビングで、わたしはわたしの椅子に、ぐったりと座っていたのでした。

 ……そうだ、お母さん!

 思い出して見回していると、背後でトイレの水が流れる音がして、あんた何してんの、こんな時間に。寝たのかと思ってた、まったく……などと言いながら、母があらわれて、わたし寝るからね、おやすみー、そう言って寝室に行こうとしたところで、ふと立ち止まり、わたしの顔を覗きこみました。ん、どうしたの。何か、あったの。具合悪い? きゅうに次々に言われて、二の腕をさすられて、母の手はいつもは冷たいのにお風呂に入ったばかりなのか、じんわりと温かくて、わたしは何から話し始めたらいいのか分からずに、いや、話せない、お母さんには話せないんだ、と首を振りながら、涙を堪えていました。母は、ふるふると震えてしまうわたしの背中まで包み込むように腕をまわしてくれて、ゆっくりと、何度も、背中をさすってくれました。言えないような感じなら、無理に言わなくてもいいよ。ゆっくり息してごらん。言われるままに、息をはいて、吸ってみると、だんだんと落ち着いてきました。汗かいたね、お風呂どうする? 入る? 訊かれてわたしは、ううん、いい、お母さんありがとう、そう言うのが精一杯で、母のおやすみに、おやすみとだけ返して、自分の部屋に戻り、ベッドに倒れこんで、そのまま眠ってしまいました。


 ・●・●・


 翌朝……というか時計をみたらもう昼過ぎになっていて、母がゆっくり寝かせてくれたのかと、ぼんやり思いました。

 からだがひどく怠くて、それでもなんとか起きあがると、頭も重く……ん、んっ、と咳払いして、喉にからんだものを吐きだしたら、ティッシュが真っ赤に染まりました。

 携帯が床に落ちていたので拾い、ぼんやりとしたまま確かめると、きのうの夜にサキちゃんや、おかしな宛先から届いたはずの壊れたメールは、フォルダの中やゴミ箱、どこを探しても見つかりませんでした。エミちゃんから送られてきたメールも、わたしがご飯を食べる前のところで止まっていて、サキちゃんからは、何のメールも着信もありませんでした。

 わたしはサキちゃんに、おそるおそる電話して、はい、もしもし、とサキちゃんが出たことにほっとしながら、おはよう、あのさ、きのうのエミちゃんからのメールなんだけど……と切り出しました。

「ごめんっ! ごめんね、怖かった?」

 サキちゃんのその様子に、何を言われてるのか分からなくて、えっ、えっ、となっていると、

「実はね、あの話、エミとわたしで考えたやつだったんだ。ほんとごめん!」

 わたしはサキちゃんの話を、味のしない食べ物をもくもくと噛むように聞いていました。サキちゃん曰く、怖い話をみんなで話そうと、エミちゃんが言い出して、サキちゃんもエミちゃんがそんなことを言い出すなんてびっくりしたけれど、面白そうだと言って賛同して、みんなには内緒で準備をしていたのだと、楽しそうに話していました。

「エミってね、すごいの。小説たくさん書いたりしててね、でもみんなにはまだ言ってなかったんだけど、ちょうど怖い話ができたから、夏だし、じぶんが書いたことにはしないで、みんなに話してみたいんだって言うの。そんなこと、エミが考えてるなんて、びっくりしちゃったんだけど、話も先に読ませてもらってかなり怖かったし、これみんなの前でエミが読みだしたらどうなるかなーって、気分がノッてきちゃってさ。でも、いざ話してみたらさ、ちょっとアレな感じの空気になっちゃったし、時間も遅いから、わたしの方で切り出して、お開きにすることにしたの。そうしたら、エミがさ。まだ話したい、って言うのよ。いやでもあの感じじゃあさ、またみんなに話そうって言ってもキツいと思うよ? ってあたし言ったのよ。そしたらエミ、カヨちゃんに聞いてほしい、カヨちゃんなら聞いてくれると思う、って言うから、じゃあちょっとだけ訊いてみるけどダメそうだったらすぐに止めるよ、って言ったの。そしたら、分かった、でも、カヨちゃんなら、いいよ、ってきっと言ってくれると思うから、って。……いやほんと、なんだったんだろうね、なんか二人で盛り上がっちゃって、カヨちゃん巻き込む感じになっちゃって、なんかほんと申し訳ない、ほんとごめん」

 わたしは何度も、うん、うん、そうだったんだね、と頷いていました。

 じゃあね、またあそぼうね。サキちゃんが言ったので、うん、またね。わたしも言って、電話を切ろうとしたときでした。
 電話の向こうで、かすかに、サキちゃんじゃない誰かが、くすりと笑ったような気がしたのです。が、電話はすぐに切れてしまい、わたしもひどく疲れていた上に目が覚めたばかりだったので、それ以上確かめる気にはなれませんでした。

 わたしはそれ以来、この話を誰にも話していませんでした。……あなたのほかには、誰も。




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