見出し画像

読書感想#33 【ジル・ドゥルーズ】「カントの批判哲学 (『判断力批判』における諸能力の関係)」


私たちが普段用いる、美という観念は、ある種の客観性や必然性、普遍性を当然のこととして要求しています。しかし元来、美しさとは個別的なものであって、客観的な裏付けを要するものではありません。むしろそれは主観を通じてのみ私たちに作用するのです。それ故、美的判断の客観性には実は概念が伴っておらず、その必然性と普遍性とは、畢竟すれば主観的なものに他ならないといえます。逆にいえば美しさは、規定された概念が介入される毎に、その魅力を失っていくものでもあるのです。換言すれば、美とは概念なき表象です。そして概念なき表象として捉えるために我々が心得るべきは、その対象に対し、実践的側面から見ても思弁的側面から見ても同様に、無関心たることです。


美は客観的な一致には宿りません。しかしその一方で、美は経験的にしか知り得ないものである以上、何らかの総合が要求されます。そしてその総合というのはもちろん主観的である以上、統一ではなくむしろ調和といわれるべきでしょう。それは即ち一致においてではなく、偶然的な仕方によるのです。この偶然的な一致というのは、もちろん直感の形式ではあり得ません。ここでは、ある個別的な対象の、想像力における反省を意味しています。それはもっぱら自己自身に向かう、どこまでも内的なものなのです。

ここで論点となるのは、表象された美しき対象の存在ではありません。ある美しき表象の、私に及ぼすその効果の方です。故に重要なのは反省という形式の表象です。もちろんこの反省というのが立法的でないのはいうまでもありませんが、そればかりか、諸対象に対してさえ法則を立てはしません。それはどこまでも自己自身にのみ向かうのです。

例えば私たちは、色彩や音響などを、それ自体においては美しいと感じません。なぜなら、それらは私たちが美しいと感じるための、その対象として存するのであり、私たちが美しいと感じるのは外的な諸物によってではなく、まさに私自身によってだからです。

繰り返しになりますが、その時私たちが最も心得るべきは、その美の対象に対して、無関心であるということです。実践的関心からも思弁的関心からも独立で、自己自身を全く無関心なものとして定義するときに初めて、私たちは真に美しいものに出会えるのです。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?