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読書感想#31 【ジル・ドゥルーズ】「カントの批判哲学 (『純粋理性批判』における諸能力の関係)」

認識の事実問題、それは私たちに、アプリオリな諸表象が存在するということです。アプリオリとは何か、それは即ち、経験から独立なものであり、故に必然的並びに普遍的であるということです。

普遍的で必然的なものは、例え如何なるものであっても、経験によっては与えられません。経験によって与えられるものは、個別的で偶然的なものに限られるからです。故にそれは経験に適用されることはあっても、経験から由来して来ることはないのです。アプリオリは経験を超越しています。そして私たちが認識にあたり、このアプリオリを用いているという事実は、何より私たちが経験の所与を超出する存在であるということを意味しているのです。

経験の超出を可能とするのは、主観的な諸原理をおいて他にありません。客観は経験の事実であるからです。故に私たちの認識には、主観的な諸原理が含まれているといえます。ここから事実問題は次に、権利問題へと移るのです。

権利問題とは即ち、経験が必然的に我々のアプリオリな諸表象に従う、その所以を問うものです。事実問題ではいまだ、認識は主観と客観との間の対応、観念と事物との間の一致という次元で考察されていましたが、しかし権利問題においては、認識は観念と事物との一致の理念ではなくして、対象が主観へ必然的に従属する、その原理ということになるのです。換言すれば、認識能力は立法的であるという結果が導き出されるのです。

では、その認識の領域においての立法者にあたるのは何か、それは悟性です。悟性が法則を立て、そして判断するのです。そのもとで想像力によって総合され、図式化されます。即ち諸現象は想像力の総合を介して悟性に従属し、そして悟性によって認識の法則が立てられるのです。それを認識が体系的統一の極大に向かうような仕方で、理性が推論し象徴します。認識とはおおよそ、かくの如き流れで成立するのです。

ここであえて体系的統一と記す訳は、諸表象が一つの意識において統一されるとはいっても、まさにそれによって諸表象の総合する多様が、何かある対象に関係づけられるのでなければ、それは真に統一とはいわれないからです。統一というのは、多様を一個の対象に帰せるのでなければなりません。単なる総合では意味がないのです。

それというのも、 認識は総合をはみ出す二つの事柄を含んでいるからです。まず一つに、認識は意識を含んでいます。より正確にいえば、諸表象が同一の意識に所属し、そこで互いに結び合わされているという事態を含んでいます。二つに、認識は対象への必須の関係を含んでいます。即ち認識を構成するものは単なる多様の総合というだけでなく、多様を一つの対象へと関係づける作用も必要とするのです。もしこの統一がなければ、我々は厳密な意味でのいかなる認識も獲得出来ないことでしょう。

終わりに望んで、もっとも重要なことを述べておくと、認識能力に従属することが可能なのは、ただ現象のみであります。物自体はその対象とはなりません。また理性自身が現象に適用されるということもありません。時折、認識の領域においても理性が立法者たろうと企てることがありますが、「純粋理性批判」はまさに、これをさけんがための反省会だったのです。





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