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読書感想#19 【高山岩男】「呼応の原理」

 私が重きを置く哲学の一つに、本書に於いて展開されている対話の哲学があります。対話というとあまりにも身近過ぎて、一見哲学からはほど遠いものであると感じられるかも知れませんが、それは主に次の二つの点からみて誤解であることが分かります。

 一つには先ず、哲学は常に身近な問題を取り扱うものであるということです。よく科学や経済、政治が現実を舞台に戦っているのに比べて、哲学は空想を取り扱っている、と小馬鹿にする人がいます。もちろんどう思うかについては人それぞれなので、特別それに対する反論を用意する気はありませんが、ただ科学でいえばニュートンやガリレオ、ケプラー、経済でいえばマルクスやエンゲルス、ケインズ、政治でいえばホップズやルソー、ベンサムなど、それぞれの分野で業績を残した偉人たちは皆同時に哲学者でもありました。これは学校教育だけでは満足せずに、自主的に深く学問を追求したことのある人にとっては満場一致の事実でしょう。彼らはただそれを知らないというだけで、哲学は常に私たちのすぐ傍で、私たちの生活を支えてくれているのです。

 そして二つ目に、対話というのは実はそう簡単なものではないということです。一口に対話といっても、例えば上手い対話と下手な対話というのがあります。もちろん単に話が長続きするとか、自分の意見を通せるから対話が上手いという風にはなりません。思うに、相手の本心を前向きな姿勢で汲み取り、それを活かすことができる能力に長けている人が、ここでいう対話上手なのです。

 対話が下手な人というのは、この相手の思いを汲み取ってあげようという姿勢に著しい欠如が見られます。本来は対話を重ねながら地道にコツコツと相手との関係を築き上げていかなければならないところを、対話下手は相手の返事を待たずして、自分の被害妄想だけで話を勝手に膨らませては、二言目には勝手にご立腹している始末です。もちろん相手の言葉尻を捉えて、全く異なる文脈を形成し始めては対話が成り立つ筈もありません。

 このような事態になるのはおそらく、そもそも対話の目的は何なのかという基礎的な意味付けがされていないからです。即ち対話のなかに哲学がないからです。世の中には他者と対話する場面になると、すぐさま戦闘態勢に入る人がいます。ただ一人の人間が意見を述べたという出来事に対して、謎に過剰な防衛本能が呼び覚まされ、仕掛けられてもいない妄想上の攻撃に対して怒り狂った反撃を開始します。もちろんこれが対話の目的な訳がありません。

 対話の目的はそれぞれ異なる意見を持ちながら生きている私たちが、共に暮らす上での最適な妥協点を見つけることです。そしてもちろんそのような妥協点など見つかる筈はありません。仮に妥協点が見つかったと思っても、その次の瞬間にはすぐさま次の争点が見つかるからです。だからこそ私たちは何度も何度も対話を重ねなければなりません。対話を重ねている間がいわば私たちの妥協点でもある訳です。対話を打ち切った段階でその関係も終わりを迎えます。対話は私たちが思うよりもずっと複雑で、そして重要なのです。


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https://sinkyotogakuha.org/

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