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尼僧物語(1959)から人間らしさを考えてみた。

 この前歩いていたら、西日に映える蝶の影法師が、街路樹の彼岸花の蕾と相重なり、秋の便りが届いた。
 陽気から陰気への季節に移り変わっていくと、自然と自分の内面に磁針が傾き、思慮深さが増していくような気がする。

 私は、小さな秋の訪れに招かれて、久しぶりにクラシカルな映画を観てみた。オードリー・ヘップパーン主演の「尼僧物語」(1959)である。この頃の作品は、グラフィック的なエレメントはまだなく、すべてにおいて、人間の手で紡がれている貴重な時代作品だと思う。

 私にとって、オードリー・ヘップバーンは憧憬の存在で、20代の頃からロールモデルの一人だった。彼女から滲み出る品性や風雅な雰囲気は、この映画のような質素な尼僧姿であっても決して色褪せない。それどころか、モノトーンの身なりが一層、彼女の艶姿を引き立てていた。

凛然とした佇まいが、息を呑む

 この物語は、医者の娘のガブリエルが、修道院に入り、医学を学び、看護尼として、アフリカのコンゴへ派遣され、医療の使命と宗教戒律との間での矛盾に相対し、葛藤と苦難の先に、自分の生きる道を定めていくストーリーだ。

 脚本自体は、とてもシンプルで分かりやすかったが、ガブリエルを通して、人間であるがゆえに、誰もが持っている「感情」と向き合わせてくれる。私は日本で生まれ育ったので、荘厳な雰囲気の修道院や、戒律というものは朧気なイメージでしかなかったのだが、カトリック教会の教えが、これほど厳粛だったとは夢想だにしなかった。私から見ると、人間的な思想や行いのほとんどすべてが、懺悔の対象に置換されているように感じた。

 キリスト教といえば、「原罪」「贖罪」「愛」「隣人愛」「赦し」そして「懺悔」というキーワードが、私の脳裏には浮かんでくる。人間として生まれたのなら、誰しも「感情」を持っており、幾度となく苦心を味わったりもする。戒律の元で、神の教え以外の思想は、すべて懺悔し、赦しを乞うガブリエル。やがて、看護師として患者の声に耳を傾ける立場と、鐘の音が鳴れば、礼拝に向かわなくてはならない尼僧としての自分との間で、どちらを選べが正しい道なのか、ひどく葛藤していく。

 コンゴで出会った医者は、彼女の苦慮に対して、こう迫ってくる。

「今まで大勢の尼僧と仕事をしたが、君はその連中と違う。君は人間的だ。だから患者に好かれる。自分の考えを持っている。修道院が期待する尼僧ではない。」

 この台詞のシーンで、私にはある戦慄が走った。(;´・ω・)

「え??人間的で、自分の考えを持っていたら、修道院の尼僧には、似つかわしくなくなるということなの?」

「求められているのは・・・
戒律の中にある恭順のみの生き方なの?」

 もし、私がガブリエルの立場であったのなら、やはり疑念を振り払えずに、教会側が求める「懺悔」の枚挙に暇がなくなっていくだろう。私は、そもそも自分らしく振る舞ってはいけないの?と、私の中で何かが、削られていくように瓦解していき、ゲシュタルト崩壊していくかもしれない。欲や感情に振り回される未熟性を解脱していくための儀式として、形づくられてきたのだろうけれど・・・ 自分が自分でいることは、「核」である自分を生きているということだから、そこはむしろ、守るべきものなのでは?という思いが私の胸に渦巻く・・・

 とうとう疲弊困憊し、心尽きたガブリエルは。還俗して、尼僧を降りる決意をする。

「服従の教えが原因だったのです。疑問を抱かずに服従するキリストが見せた完全な服従は私には出来ません。」

どちらの道を歩むかは、自分が決める・・

 この服従の教えというのは、私たち日本の国でも、同調圧力という形で、日本人の肩にのしかかっている気がしてしまう。
個人の意思や希望よりもずっと・・・廻りの空気を読むことを不文律に突き付けられている日本人の姿と、完全な服従の教えに従順な尼僧の生きる姿勢が、私には、異質だとは映らなかった。

「正義」や「愛」は、時代や文化によって、または時の権力者によって、意味合いをすり変えられてしまう危険を孕んでいると思う。相手の立場から考えることが抜け落ちれば、管理者側にとって都合よく「秩序」という言葉で「管理しやすいルール」を労働者や消費者に押し付けてしまうパターンもあるだろう。

 この世界は、自分側と真逆の立場側の見方、つまりは賛成派と反対派そして、中立派が共存している。だとしたら、それがどんな理由でも、絶対服従や一辺倒の見方では、偏りが生まれてしまう気がする。

 人間的であること。自分の意見を持っていること。

私にはそれは、一人の人間が個を育ててきた証であり、成長だと映る。それが社会で認められたうえで、尊重が生まれ、お互いに譲り合ったり、擦り合わせしていく姿勢が、「秩序」に繋がっていくと思う。その認め合える精神性が、押したり、引いたりして、「正義」になったり、時には「愛」の波にカタチを変えていくんじゃないかな。(=゚ω゚)ノ

 この映画は、社会が生み出しているルールと自分らしく生きることとの、線をどこで引くのか?その感覚を掴んでいくことの大切さを私に諭してくれた気がする。それは、私が時間をかけて、自分の中でしっくりとくるまで、迷い悩みながら掴んでいくものなのだろう。

うーん・・・人生の旅路はやっぱり甘くない(・_・;)
(せめてスイーツをほお張ろう(笑))

この秋、引き続き、文化や芸術に触れて、自分の感性をスクスクと育てていきたい。

今秋、あなたは、どんな映画に出会いますか?

あなたの心のランプに、温かい光が灯りますように。

自分の感覚を掴んでいこう。


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