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現代日本において郵便で通信をする話

近頃の20代にしては変わった趣味として、Twitterのフォロワーの何人かと文通をしている。

文通といっても頻度は数ヶ月に1回くらい。大体ポストカードを同封するので美術館に行ったあとが多い。気が向いたときに送ろうと思うが面倒くさがりなので先延ばしにしたりする。

手紙の良さは、形式性と現前性だと思っている。インターネットのDMで1秒でメッセージを送ることのできる友人にわざわざ手紙を送る意味はそこにあると思う。


正直、手紙に書いてある文章の内容はどうでもいいと思っている。僕はだいたい季節の挨拶から始め、相手の近況を思いやり、自分の近況を述べて、最後に「ご自愛ください」などと体調を気遣う文言を書く。
大体追伸にどこどこの美術館で買ったポストカードを同封しました、などなど。

内容は他愛もないことだし、何よりTwitterのフォロワーなのでお互い近況なんてある程度把握している。それでも手紙が意味を持つのは、形式でしか伝わらないものがあるからだと思っている。

文面の形式だけでなく、どんな便箋にどんなインクでどんな文字を書くのか、どんな封筒にどんなポストカードと一緒に入れて送るのか、情報としての文字だけでは表現できない形式性、それが相手に情報を超えたものを伝えられると思っている。


手紙は、物体としてそこにある。送る人が選んだ便箋と封筒とペンがあり、送る人の手でしか書けない文字がそこに乗っている。

原研哉『白』という本に、次のような一節がある。

一方、紙の上に乗るということは、黒いインクなり墨なりを付着させるという、後戻りできない状況へ乗り出し、完結した情報を成就させる仕上げへの跳躍を意味する。白い紙の上に決然と明確な表現を屹立させること。不可逆性を伴うがゆえに、達成には感動が生まれる。またそこには切り口の鮮やかさが発言する。

原研哉『白』(中央公論新社) p71-72

電子情報は、書き換えることが可能であり、それが前提である(ブロックチェーンは例外かもしれないが)。対して、紙とペンによる筆字は不可逆な作業であり、必然的に緊張が走る。SNSのときよりも「推敲」して書き始める。現在の生活で最も日本語を練る時間かもしれない。

そうして書かれた物体としても手紙が、手元にある。肌触りがわかる。以前なんかロマンチストのフォロワーが便箋に香水をかけて送ってきた。あれにはやられた。その現前性は、決して電子デバイスでは得られない。


これを踏まえて、文通をしてみたいと思った諸氏に一つだけアドバイスがある。あまり変なことを書かないこと。

手紙は、その物質性ゆえに長期保存が可能である。サービス終了したら全てが消滅するSNSとはわけが違う。僕も8年前からその後の人間関係のいかんにかかわらず手紙は全部保存している。つまり変なことを書くと一生保存されるかもしれないということだ。

幸いにして、手紙は、趣味としての文通の範囲では、特に面白いことを書く必要はない。内容と同等かそれ以上に形式が重要だからだ。


数ヶ月に1回くらい、仮想世界ではなく、現前する世界の通信があってもいいんじゃないだろうか。
……と、いいつつ、そろそろ手紙の返信を書かないとな。

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