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なぜこの体とこの中身なのか

最近なぜ私は私なのかとよく考える。

自分が生きる意味、この家族の中で生きる意味、日本という国で生きる意味、この地域で生きる意味、私が私である意味。

人はお互いを支え合う為に存在していると考えている。

学びや労働は他者の為に知識や経験を活用すると考えている。
私は誰かのためになることをしたいと考えている。けれど、それは同時に自分の為になり、かつ賞賛を得たいという欲求の表れではないかとも思う。

自己満足のために人が喜びそうなことをしているのではないだろうか。

人になにかをすることで、相手は喜んでくれるが、それは本当に自分が欲しかったものなのか、相手は喜んで自分が喜ぶという相乗効果は生まれるがそこに本当に意味はあるのだろうか。

嬉しかった、楽しかったという感情のみでそれ以上でもそれ以下でもないのだろうか。
もし、なにかで喜びあった後に喧嘩でもして、嫌な空気になったら喜びあった時間は無駄になるのではないだろうか。
喜びあった過去と、喧嘩しあっている現在のギャップに置いていかれるだろうし、私ならきっとその現実に、どこか一線を引いて傍観してしまうだろう。

外面は喜んでいるか、はたまた喧嘩をしているが、内面の私は一線を引かれたところから絵画を見ているような傍観者になっている、という感覚になる。

それは、内と外で自分の人格が違うことを示しているようだと感じる。

外面であるこの体と意思を持つこの心は本当に私という1人の人間であるのだろうか。

全く別人の外面と内面が合わさって私という人間が存在しているのではないかと思う。
この考えからすると、外面の見た目は人間の私というひとりの人がいて、内面の見た目のない透明人間の私というひとりの人がいる。切り離すとそれぞれ別の人間になる。

けれど、私の中に誰かが入り込む余地はない。
それは私という内面が私という外面とピッタリフィットしているから、この文章を読んでいる人も、外面と内面がピッタリフィットするからその体でその中身であると思う。

生まれながらにしてその体、その中身であり、誰よりも長い時間を共にしてきた体と中身同士だから1番の理解者は自分であって、最高の親友は自分しかいない、という表現が生まれる。

ほかの人になりたいとは思わないし、自分だからできることや可能性のあることはきっと待っている。

だけれど出来れば家で金持ちに飼われている猫にはなってみたかったと内面の私は思ってしまう。

日々に幸あれ。

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