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読んでよかった2

「読んでよかった1」では脱線しすぎてまったく「読んでよかった」本の話にならなかった。気を入れて書くと時間かかりすぎるしその修正もスマホでやり続けて他のことができなくなるので簡単に書く(忘れないうちに……でももう遅いか)。

① ヴィジャイ・プラシャド(粟飯原文子訳)『褐色の世界史: 第三世界とはなにか』 水星社 2013年
確か新刊のときに柄谷行人が書評を書いていてそれで記憶に残っていた。アジア内部だけでなく第三世界の連帯・共闘は私の大テーマなので手に取ったことはあったが、アジア以外の話が多すぎるようだったのと2段組のボリュームに挑戦する気力がなかったのが、今年になって図書館で借りて読んだのは、「世界闘争が階級闘争に移行しつつある」とかつて書いたことがますます重要(=深刻)になってきたと思われるからだ。
バンドン会議で最初の頂点を迎える東欧、アフリカ、中東、そしてアジア各地での反植民地闘争・民族運動を、膨大な文献を駆使して大きなHi-storyにまとめる力量(そしてそれを訳し補注する訳者も!)がすごいが、それは著者の、すでに歴史のなかで消え去りつつある第三世界闘争への強い共感と指示のエネルギーによって、劇的な展開が語られるため、読者に深い感銘を与える。一国の歴史はもちろん、ひとつのイデオロギー(共産主義など)、ひとつの地域(たとえば「アジア」)を超えるだけではなく、共時的と通時的が不可分な(いわば斜行する)歴史の捉え方は新鮮であり共感する。似た例として、福岡アジア美術館の「闇に刻む光 アジアの木版画運動1920sー2010s」と、福岡、名古屋、東京で開かれた、川上幸之介による『PUNK! The Revolution of Everyday Life 』(新版、川上幸之介編 、倉敷芸術科学大学芸術学部 川上幸之介研究室 2021年)をあげたい。これらはみな、ある時代にある地域に焦点を当てるというセクションが、場所も時代も飛躍しながら連鎖させていくことで、特定の国家でも民族でもイデオロギーの歴史でもない、まさに「精神の歴史」を描いていることが『褐色の世界史』と共通するのだ。
ただし話がどんどん違う国に移り、聞いたことのない(しかも覚えにくい)人名や組織名が次から次へと出るので、けっこう読むには気力が必要だった、でも壮大な「第三世界解放の夢」というストーリーのダイナミックきわまりない展開は最後まで読む意欲を持続させられた。
また最後の訳者解説もすごいテンションなので必読だったが、ソ連と比べて中国の位置づけが弱いとかいう指摘があったような。たしかに第三世界運動の崩壊のひとつの原因は中ソ対立だろうし。しかも「アジア」という概念を崩壊させたのは(先ぶれはもちろん日本だが)、中国系が民族を度外視して経済的成功をおさめたシンガポールが象徴的に描かれ、そして現在(今は経済の破綻のニュースが毎日流れるが)中国が独裁政権下で世界第二位の経済大国となったことから、中国(系)の役割はもうちょっと別の光があたってもよかったのかも(だけど、それ以外の膨大な記述・論点でもすでにお腹いっぱいなんですが……)。このことも含めて、第三世界の夢が崩壊したひとつの原因として、いわゆる「グローバリゼーション」があることは確かだが、そういってしまうとより本質的な問題を隠蔽することになるだろう――グローバル化は階級対立を超克できないという問題を。
図書館で借りたので頻出する名フレーズに線引きとかマーキングできなかったので古書で買おうと思ったら、増補新版が出てしまった! (旧版刊行後の歴史の展開もフォローしているだろう)新版が欲しいけど古書になるには時間かかるか。

磯前順一『石母田正 暗黒のなかで眼をみひらき』(ミネルヴァ日本評伝選)、ミネルヴァ書房、2023年)
これは最近の書評で知って、おもしろいかどうかわからないので図書館で借りた。古代史、中世史のかなり専門的な話もあるのでわかりにくいところもあったが、「マルクス主義歴史学」なんて今や死語のような姿勢を貫いた歴史学者の評伝なのに、歴史を語るとは、よりよい社会をつくるための努力であり、人間を抑圧から解放するための知的かつ実践的な営為であることを実践した歴史学者としての生き方には強い共感を覚えた(①のプラシャドへの共感と通じる。)専門的な歴史書だけでなく、名文家としての能力を生かした個人的なエッセイも読者を魅了した。『歴史と民族の発見』の続編は特に一般読者向けに書かれたそうだ。
日本共産党、スターリン、中国の文革を一時的であっても信頼(信仰)したことは今の眼では笑止かもしれないし、彼の本はもう読むに堪えないのかもしれないのだが、この評伝からは読んでみようという気を起させた。『歴史と民族の発見』は、表紙がケーテ・コルヴィッツの版画(上記アジア版画展で展示)である平凡社ライブラリー版が欲しかったが、古書でもけっこう高価なので、収録文はやや異なるがほぼカバーしている著作集14巻と、ついでに15巻を借りている。磯前順一の本では石母田の美術論は言及されていなかったが、15巻には魯迅とコルヴィッツ、石川啄木や幸徳秋水も論じられているので、共産主義も下部構造論も乗り越えるアナキズム&文化とのかかわりに興味があったのかもしれない。

Amazon.co.jp: 病牀六尺 (岩波文庫 緑13-2) : 正岡 子規: 本
広島に行ったら必ず寄るアカデミィ書店(古書店)で100円だったので買った。実は私は詩は苦手で、俳句も短歌も(上述の)石川啄木以外ぜんぜん興味がない、というか、私の脳のプラグインが欠けていて理解できない(演劇とかジャズとかピザとかのよさが理解できないように)、なのに買ったのは、薄くて安いせいもあるが、その前に阿部公彦『別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石: 「文豪」の全身を読みあかす (教養・文化シリーズ) 』( NHK出版、2023年)を読んでいたから。漱石と子規が松山時代に出会い親友となっていたことは明治文学史ではよく知られるが、私は昔から今にいたるまで漱石作品には愛情と敬意をもって接してきたのである。(ただし石原千秋・小森 陽一対談の『漱石激読』では昨今のあまりに精緻かつ広範になりすぎたハイレベルな読み方についていけませんでしたが……)
で『病牀六尺』は本当に驚いた。肺結核とカリエスで起き上がることもできず、かつ毎日のように?すさまじい苦痛に襲われるのに、俳句はもちろん、来客、絵、おみやげ、食べ物、草や樹、時事的ニュースなどなど、一見しょうもないことも含めた非常に幅広いことに興味を持ち続け、ときにはかなり辛辣な批評をしたかと思えば、他人や社会の弱者への愛情あふれるまなざしを注いだり提案をしている。盆栽の写真へのつっこみかたは、他愛のない趣味にも多様な表現を期待する美術評論家のパロディのようで、そのこだわりかたは、ときには笑いもさそう。もちろん子規の歴史的な貢献である俳句における「写生」の考えも垣間見える。絵のモチーフをいちいち細かく描写するのは美術史学でいうdescriptionだが、単なる記述のなかに芸術が発生するかすかな気配を感じさせる。
要約してしまえば、また①(そして②)にも書いたような、極限まで身体が追い詰められているにもかかわらず(だからこそ?)精神がみずみずしい運動を決してやめていないことに驚きと感動をおぼえるのだ。
これから『仰臥漫録』『墨汁一滴』も読んでみたい。特に岩波文庫新版の『仰臥漫録』はなんと子規の絵がカラー図版でのっている! 啄木歌集のように愛読できそうなのでいつか買いたい。

以上はほぼ連続してヒットだった。前述のように私には本を読む才能はないし、つまらないもの、読んでもわからないか共感できないものもしばしば当たるのだが。なお前回にあげたものではゾラの『ジェルミナール』はあまりに凄絶な展開とかつ映画的な場面(そのまま絵コンテになりそう)に圧倒された。『制作』の画家の青春ドラマ、『居酒屋』の都市貧民の生活のなまなましさも強烈だった(が、意外に『ナナ』があまりおもしろくなかったのはキャラが少ないからか)。それと比べたら作者がでしゃばりすぎる水木ユゴーもバルザックもだめですね。普通はゾラよりバルザックなのだろうけど……(そういえばフローベール『ボヴァリー夫人』今読んだらどう思うかな、モーパッサンも読んでないしな)
現代の小説でも評論でもいっぱい読むべきものはあるのだろうし、再読したい名作も買ってあるが(筆頭は『カラマーゾフの兄弟』『ユリシーズ』)、やはり生きているうちに読んでおいたほうがいい「古典」を優先したい。(でももう一生『失われた時を求めて』には挑戦しないだろう、あまりにブルジョア的で共感できないので。ロシアと比べるとフランスが好きでないせいもあるが。)20世紀の後半の作品でもすでに「古典」はいっぱいあるだろうしアジア文学もほとんど知らないし。莫言買ってあるけど。

またしてもあまり「簡単」でなくなってしまい他のこともやりたいので、いったんここまで。まだ未練がましく加筆するとは思うが。
(2/26 AM11加筆)