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#176 多神教?無宗教?【宮沢賢治とシャーマンと山 その49】

(続き)

ここまで、個人的な興味に任せ、とりとめもなく様々なテーマを取り上げてきた。元々は、宮沢賢治と日蓮主義等の関係から始まった興味だったが、思いがけずテーマが拡がり、自分があまりにも日本人の信仰に対して無知であったことに気付かされるきっかけともなった。以前にも書いたが、ここで書いてきたことが、賢治と関係するのか、しないのか、それすらよくわからない。ただ、自分自身にとっては、日本人の信仰や思想を考えるきっかけとなった。

「日本人は無宗教か?多神教か?」というトピックスが時折話題となるが、こうして見てくると、「日本人は多神教的な信仰を持っているのではないか?」という想いがする。明治維新で姿を消すはずだった神仏習合は、その長い歴史故に、日本人の信仰に計り知れない影響を与えているように思える。表面上から姿を消しても、意識の奥底へと潜り込み、染み付き、定着化したため、もはや改めて顕在化してその意義を問い直すこともないのではないか。

宗教を巡っては、近年でもしばしば事件が発生するなど、宗教に対してマイナスの印象を抱く機会も多く、拒否反応を抱く人も多いように思われる。そのためか、自分が何らかの宗教に所属していると表明する人はあまりいない。

一方で、何らかの「信仰のようなもの」を日本人は、自覚的か無自覚的かを問わなければ、驚くほど多いように思える。
元日から大晦日までの1年の内に、ほとんどの日本人は仏様の前で手を合わせ、神社で柏手を打つ機会があるだろう。場合によっては、参列した結婚式等で、キリストに向かって祈るかもしれない。加えて、毎朝テレビから流れる星座占いを熱心にチェックしているかもしれないし、手首にはパワーストーンを巻き、首には十字架のネックレスが光っているかもしれない。空前の登山ブームと言われる中、初心者の無謀な登山に対して厳しい批判が寄せられてもなお、山を目指す人は減る事もなく、かつて山岳信仰の行者達が修行として登った山々へ挑み、ご来光に向かって手を合わせる。

このような形を、信仰と呼んでよいのかは議論があるのかもしれないが、私には、やはり信仰の一つの形に見える。一人の人間の中で、様々な信仰が習合し、もはや祈る対象すら意識に上らず、神仏が溶け合っている。

【写真は、出羽三山・月山のご来光】

(続く)

2024(令和6)年4月28日(日)


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