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#102 賢治の難解な世界観をどう理解すれば良いのか?【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その40】

(続き)

◯ 賢治の難解な世界観をどう理解すれば良いのか?

先に挙げたような、作品テーマといった論理的に説明できる部分にとどまらず、宮沢賢治作品で、特に私が難解に感じる「容易な言葉を使った難解な組合せ」には、人間の無意識に対する働きかけのようなものを感じます。そして、この点こそが、「賢治好き」でも言語化して説明することが難しい、賢治の魅力の重要な要素にも思えます。

エマーソンを含め、「千里眼」の福来教授や元良教授のような、賢治が生きた時代の知識人達は、人間の魂などの無意識の領域に注目し、「無意識に対し」、「意識的に働きかける」よう試みていたようにも見えます。

賢治も、「無意識」の領域を「意識」し、読者の無意識に直接働きかけるよう試みていたのではないでしょうか。「注文の多い料理店」の紹介文には、「なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」と書かれており、このような試みは、現代の作品より、意図的に行われていたように思えます。賢治作品の、単純な七五調のリズムだけには留まらない語呂の良さがある文体や、オノマトペにも、無意識の心地よさが刺激されます。

「クラムボンがカプカプ笑う」ことを、理屈で考えても理解困難なのです。

エミリィ・ディキンスンの詩も、アメリカ人に馴染み深い讃美歌のリズムに乗っており、エミリィの詩を日本語に訳す際、原文のリズムの魅力が伝わらないと言われます。同様に、賢治作品を外国語に翻訳しても、リズムや音の魅力が伝わらないことが予想されますが、そのように考えると、賢治作品を翻訳する場合、翻訳する先の言語にとって心地よいリズムに乗った翻訳が必要となります。

もし、賢治作品の思想的背景に、エマーソンのようなアメリカの思想家との共通性があるとすれば、リズムを意識した新たな翻訳によって、賢治作品がアメリカやヨーロッパでも、より親しみをもって理解されてる可能性があります。

逆に日本人に理解されづらいエミリィ作品もまた、新たな翻訳によって、日本人により愛される可能性があるように思われます。

もしかすると、翻訳せず原文のままの方が、二人が紡いだ言葉の力が直接伝わる可能性すら高く、それは、日本のお経の中に「ギャーテーギャーテー」といった原文がそのまま使われ続けていることにも似ている気がします。

(続く)

2023(令和5)年11月19日(日)

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