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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

『わたしを離さないで』(原題:Never Let Me Go, 2005)を読んだのは初めてではない。
いつだったか正確には覚えていないが、かなり前に一度読んだことがある。
詳細な内容はほとんど忘れてしまっていたが、どういう人たち、、、、、、、についての話であったかは、もちろん覚えていた。

今回、わたしはこの小説を、「初めて読むかのように」戦慄しつつ再読した(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)。

主人公は、三十一歳の女性キャシー・H。例によって「一人称の語り」で、過去の記憶を回想する形式で物語が綴られる。

仲間たちと施設で過ごした幼年期から少年・少女時代そして思春期、卒業後のコテージでの共同生活。これらの、ある意味で輝かしい日々の様々なエピソードは、みずみずしい青春小説のようでもある。
しかし、その後、訓練所を経て、彼ら彼女らが提供者あるいは介護人として、それぞれの使命を担い始めてからは様相が一変する。

そのような運命は、もともと決まっていたものである。
彼らもみな、あらかじめ知らされ、受け入れていた使命である。
それでもわたしは、読みながら、いつしか本気でイシグロに対して憤りを感じていた。
なぜ、いったいなんのために、このような残酷な物語を書くのだ、と。

イシグロは、しばしば、読者が気になることをあえて最後まで書かない。
それが重要か否かは解釈の問題であるとしても、大小さまざまなディテールが捨象される。

この物語でも、多くの疑問が残される。

キャシー・Hや彼女の仲間たちは、「ふつうの人間」ではない。
まったく同じ血がかよい、同じように感情や神経を備えながら、「ふつうの人間」とは歴然と区別される人々である。
なぜキャシー・Hたちは、みな一様に自分たちの運命を粛然と受け入れるのだろうか、というのがわたしの疑問のひとつである。
彼らが心から望むものは、せいぜい二、三年の猶予期間に過ぎないのだ。
しかし、これは、受け入れる以外に道はないと言えばそれまでかもしれない。

それよりなにより、なぜ、そのような人びとが生み出されなければならなかったのか、そうした人々を「活用する」ための社会的な制度がどのようにして出来上がったのか?
イシグロはなにも語らない。
もちろん、彼らのような人間がいてくれれば、「ふつうの人間」にとっては好都合である。
しかし、「都合がよい」ことと、そのような存在を「生み出す」こととの間には、時として非常に高い壁が立ちはだかる。
この小説には、その壁がどのように乗り越えられたのかが、いっさい書かれていない。

おそらく、イシグロにとっては、それは重要なことではなかったのだろう。
では、なにが重要なのだろうか?

この先は、あくまでわたしの個人的な解釈に過ぎない。

以前、イシグロの最新作『クララとお日さま』についての記事で、「クララの人口の眼をとおすことで、人間の本質がくっきりと描き出された」という趣旨のことを書いた。
もしそうだとすれば、イシグロは、クララという語り手の口を借りて、「人間」について語ったことになる。

同じようなことが『わたしを離さないで』についても言えるのではないだろうか?
イシグロは、キャシー・Hという架空の人間の物語を語ることをつうじて、実は「ふつうの人間」のことを書こうとしたのではないか、ということだ。

そうであれば、イシグロがあえてキャシー・Hたちが生み出された経緯について書かなかったとしても不思議はない。架空の存在について、その成立過程をこまごまと書いても意味がないからだ。
『クララとお日さま』でも、AF(人工親友)が生まれる経緯のことなど、なにも書かれていない。

もちろん、この物語の本筋が、キャシー、ルース、そしてトミーの友情や恋、そして生と死をめぐるものであることは間違いない。当然のことである。彼らにも「ふつうの人間」と同じように温かい血も神経もかよっているからだ。

しかし、彼らの運命が過酷で、その生と死が哀しいものであればあるほど、その痛みは強いメッセージとして「ふつうの人間」たちに向かうのだ。

小説では、そのような「ふつうの人間」として、施設の保護官であったエミリ先生、ルーシー先生、そして謎の女性「マダム」が描かれている。
彼女らはいずれも、施設の生徒たちと真摯に向かい合い、恐怖心や(場合によっては)嫌悪感を克服しつつ、生徒たちの過酷な運命を少しでも和らげようと尽力する。
残念ながら彼女らの試みは挫折する。彼女らは良心的な少数者に過ぎない。

一方で、キャシー・Hたちを便利に使い捨てにする大多数の「ふつうの人間」について、物語の中で多くは語られない。
しかし、キャシー・Hたちの無言のメッセージは物語の枠内にとどまらない。それは物語の世界を飛び出し、われわれ読者ひとりひとりの胸にじかに迫ってくる。
そして読者に対して、こう呼びかけるのだ。
「あなたはこんなことが許せますか?」

この物語は、わたしたち「ふつうの人間」に、キャシー・Hたちの運命の残酷さ、理不尽さを痛いほどリアルに、ありありと共体験させてくれる。
それは、わたしたちが、決してキャシー・Hたちを生み出すことをしないための「想像力のレッスン」なのだ。

勝手な解釈であるが、わたしにはそのように思えた。





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