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カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

一組の男女が真に愛し合っていること、あるいはそれを証明できることが、なんらかの権利や恩恵、救いを得るための条件である、ということ。

このモチーフは、イシグロの長編小説でたびたび用いられるものだ。

わたしが読んだ順で言えば、まず『クララとお日さま』(2021)。
AF(人工親友)のクララは、自分の主人である少女ジョジーを重い病から癒してほしいとお日さまに懸命に祈る。その際に、ジョジーがそのような依怙贔屓えこひいきに値することをお日さまに納得してもらうために、ジョジーと幼なじみのリックがともに愛し合っていることを力説するのだ。「ジョジーとリックのことをお考え下さい。いまジョジーが亡くなったら、まだとても若い二人が永遠に引き裂かれてしまいます」と。

『わたしを離さないで』(2005)では、特別な使命を果たすために生まれてきた若者たちの間で、まことしやかな噂がささやかれる。
その噂とは、「提供」という彼らの使命を遂行する前に、あるいは遂行の途中で、カップルを対象に例外的に三年間の猶予期間を与える規則があるというもので、申請しようとする男女が規則の適用を受けるための条件は、彼らが互いに真に愛し合っていることを証明することなのだった。

そして、今回読んだ『忘れられた巨人』(原題:The Buried Giant, 2015)。

伝説に残るアーサー王の時代、ブリテン島を舞台にブリトン人と外来のサクソン人とが熾烈な戦闘を繰り広げ、アーサー王率いるブリトン人による大勝利を経て平和がもたらされ、両民族がそれぞれの村で表面上は穏やかに暮らしている。

物語は、ブリトン人の村に住む老夫婦のアクセルとベアトリスが思い立って旅に出るところから始まる。東の方角の村にいる息子に会いに行く旅だ。
しかし、奇妙なことに、二人ともその村がどこにあるのか、どれほど歩けばたどり着くのか、はっきりとは知らない。

旅の初日に、激しい通り雨を避けて、アクセルとベアトリスは道から外れた廃屋で雨宿りする。そこには二人の先客、老婆と船頭がいた。老婆と船頭はいがみ合っている。

老婆は夫とともにある島へ渡ろうとしたのだが、船頭は夫だけを島へ渡し、自分を渡さなかったと言って船頭を恨んでいる。それ以来、船頭につきまとって嫌がらせをしていたのだ。

それに対して船頭は、老婆たちが渡ろうとした島は、普通の島ではなかったのだと弁明する。船頭によれば、その島は、着いた人間がみな独りきりで生活する島で、決してほかの住人と出会うことがない島なのだ。老婆は独りきりで暮らすことを嫌がったので、島へ連れて行かなかったのだ。
ただし例外はあると、船頭は言う。まれに二人一緒に島へ渡れることもあるのだが、そのためには二人が極めて強い愛情で結ばれていることが必要なのだ、と。

「……ですから、夫婦が――あるいは未婚の男女が――渡し場に現われると、わたしたち船頭はいろいろと詳しくお尋ねすることになっています。二人の絆が一緒に渡れるほど強いのか。それを見極めるのが船頭の役目ですから。このお婆さんは認めたがりませんが、この方とご主人の絆は弱すぎたんです。……」

カズオ・イシグロ 土屋政雄訳『忘れられた巨人』ハヤカワepi文庫 p.66.

怖い話だ、と思うと同時に、上に記したような二作との共通点が自ずと思い浮かんだ。

一組の男女が真に愛し合っていること、あるいはそれを証明できることが、なんらかの権利や恩恵、救いを得るための条件である、ということ。
順序は前後したが、このモチーフは、『わたしを離さないで』から『クララとお日さま』に至るイシグロの直近の長編小説三作に繰り返し現れる。
それが何を意味するのか、そもそも「何か」を意味するのか?
わたしにはよく分からない。

ただ、少なくとも『忘れられた巨人』に関して言えば、このモチーフは、物語の序盤における単なる興味深いエピソードのひとつにとどまらなかった。
それは、物語の結末へと向かう重要な伏線であったのだ。

『クララとお日さま』が近未来を舞台としたSFファンタジーであるとすれば、『忘れられた巨人』は遠い昔の伝説を下敷きとした歴史ファンタジーである。
それ以前のイシグロのどの作品ともまったく異なる題材を扱いながら、ユニークで卓抜な状況設定、筋の運びの巧みさ、読者をひきつける語りの力、いずれをとっても素晴らしい作品である、と感じた。

とは言いながら、白状すると、忘却の霧に包まれ記憶を失ってしまう登場人物たち同様、わたし自身、この小説を読みながらいつしか眠りに誘われ、もうろうとして夢の世界をさまよったこともしばしばだった。
ある章などは、読んだ翌日に、もう一度最初から読み直した。

しかし、読みすすめるうちに、徐々に霧が晴れていくように物語の全容が姿を現し、いつしか頁を繰る指が止まらなくなる、そんな小説である。

絶え間なく地上を覆い、人びとの記憶を奪っていく霧の正体は、どう猛な雌竜クエリグが吐く息であった。
充満するこの雌竜の息が、ブリトン人、サクソン人の双方から残虐な戦争の記憶を追いやることで、地上にかりそめの平和が保たれていたのだ。

ブリトン人の勝利によって実現したこの平和を保つためには、山の巣穴に棲むクエリグを保護する必要があった。そこで、アーサー王の命を受けたブリトン人の老騎士がクエリグの護衛役を長年務めてきたのだった。

一方で、クエリグを退治する任務を果たそうとするのがサクソン人の戦士である。
その真の目的は、忘却の中に封じ込められた同胞たちの憎しみ、怨恨を解き放つことである。偽りの平和からサクソン人たちを目覚めさせ、虐殺された者たちの復讐へと起ちあがらせるためだ。

そして、アクセルとベアトリスの老夫婦は、これら両陣営のせめぎ合いに巻き込まれていく。
忘却に埋もれた記憶をとりもどすことは、老夫婦にとっても切実な問題だ。
同時に、それは恐ろしい結果をもたらしかねないものでもある。ブリトン人とサクソン人との間のかりそめの平和と同様に、二人が互いに気遣い、慈しみ合う現在の気持ちは、とりもどした記憶によって脅かされ、失われるかもしれないのだ。

それでも、二人は、サクソン人の戦士の側に立つ。たとえとりもどすことが辛い記憶であっても真実を受け止めることを決意し、「明るい道でも暗い道でもあるがままに振り返」ることを選ぶのである。

クエリグが息絶え、覆い隠されていた真実が露わになれば、サクソン人たちが蜂起し、再び悲惨な戦争が繰り返されるかもしれない。そして、永い復讐の連鎖が始まるかもしれない。
しかし、歴史の真実から目をそむけたままでは、真の平和をうち樹てることなどできまい。
互いに見ることが辛い現実も含め、歴史の真実を認め合い、それらを乗り超えるために誠実な対話を尽くすことでしか、確かな平和への道は開かれないだろう。

いずれにしても、それは物語が終った先の話だ。
物語は、真実の記憶をとりもどした老夫婦の運命を照らし出すのみである。
あるいは老夫婦の運命の行方に、二つの民族の将来の在りようが託されたのだ、と考えればよいだろうか?

民族の歴史であれ、個人(あるいは家庭)の歴史であれ、歴史を形づくるのは「記憶」であり、歴史とは「記憶の集積」である、と言えるように思う。

もちろん、記憶が常に「真実」であるわけではない。記憶は、その主体の主観を色濃く反映するからである。
記憶は、時に真実をゆがめることもあるだろうし、真実の一面だけを見て全体と取り違えることもあるだろう。
そのため、異なる記憶を突き合わせ、その齟齬を明らかにし、公正に振り返り、評価するという作業が必要になる。
だとすれば、歴史とは単なる「記憶の集積」ではなく、「検証された記憶の集積」であるべきだろう。

そして、そのような検証作業を行うためには、記憶が確かにとどめられることが前提となる。
だからこそ、記憶を忘却や埋没、隠蔽から救い出すことの意義は限りなく重いのだ。

現代の世界には、わたしたちの記憶を脅かすクエリグは存在しない。
しかし、クエリグがいようといまいと、人間の記憶は、なんとあいまいで、不確かで、たよりないものであることだろう。
決して忘れてはならないことを、人間は、いかにいとも簡単に忘れ去ることだろう。

だが、過去に人間どうしに生じた不幸な真実を、忘れ去ることでうやむやにすることは、記憶にとどめながらその不幸を乗り超えようとすることとは、まったく異なることだ。
なぜなら、忘れてしまったことは、きっとまた繰り返してしまうだろうから。

忘却というものが人間の本性であるならば、わたしたちは不断に「内なるクエリグ」と闘いながら、記憶を呼び起こし、それに形を与えることで、記憶を救わなければならない。

一人ひとりの闘いはささやかなものであっても、また個々の記憶は不完全なものであっても、そのようにして記憶を集積していくことこそが、「歴史に参加する」ということなのではないだろうか?


少し大袈裟だったかもしれないけれど、『忘れられた巨人』を読んで、そんなふうに、「記憶」というものの重みに想いを馳せた。





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