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「働くのがつらい理由」とそれを解決する方法(ルールのコストを踏み倒すビジネス)

今回の目的は、まず、現代における「なぜ働くのがつらいのか?」の理由を言語化することだ。

よくある「ブラック企業が問題」とか「政治家や経営者が悪いから」というのではなく、構造的な要因を指摘したいと思っていまる。

そして、「なぜ働くのがつらいのか?」の理由を説明した上で、「ではどうすればその問題が解決するのか?」についても論じる。


「集団のため」と「自分のため」は相反する

今の社会の前提になっている考え方として、「市場競争において、社会に必要な仕事をした人ほどそれに見合うだけの報酬を得られる」というのがあるように思う。

つまり、「社会のためになる仕事(全体の余剰を増やすこと)」と「多くの貨幣を稼げること(分配の優先権を得ること)」がイコールで結びついているという認識だ。

もしこれが本当ならば、みんながより多くの貨幣を稼ぐために努力するほど、社会全体の余剰が増えていって、どんどん豊かな社会になっていくはずだが、実際にそうはなっていないというのが「働くのがつらい」と感じやすい理由のひとつだ。

まずここでは、「社会に必要な仕事(余剰を生産する仕事)」と、「金を稼ぐこと(余剰の分配の優先権を勝ち取ること)」は、一致するのではなくむしろ相反する関係にあることを指摘したい。

今の社会は、「社会に必要な仕事をした人ほど金が儲かる」といったような、「集団のため」と「自分のため」が素朴に一致するものであるという考え方がされがちだが、「それは違う」と言いたいのだ。

人に与えられているリソースは有限で、それを「集団のため(全体の余剰を増やす仕事)」に使えば、社会全体は豊かになりやすくても、それをした当人は不利になる。

一方で、リソースを「自分のため(自分が相対的な競争の優位を得るため)」に使えば、当人は有利になりやすいが、社会全体は貧しくなっていきやすい、という構造があると考える。

この動画は「仕事・労働」がテーマだが、まずはわかりやすい例として、何らかのスポーツの才能を持っている人がいるとする。

その人が、例えば、家事を手伝う、兄弟の面倒を見る、家族の介護をする、食料生産やインフラ整備や治安維持など社会に必要なエッセンシャルワークに従事する、など、主に「集団のため」に自分のリソースを使ったなら、周囲の人たちの豊かさに寄与することになるし、社会全体としては余剰が増えやすくなるだろう。

しかし、それによって自分の才能を磨くために使う時間や労力がなくなると、当人からすれば、自分の可能性を十分に発揮できなかったことになる。

一方でその人が、自分のスポーツの才能を開花させるための練習に明け暮れたとする。それをすると、プロの選手になるなどして金や名誉を得られる可能性が高くなる。

ただ、スポーツは性質上、誰かが勝てば誰かが負けるといった、相対的な勝者の立ち位置を争うというものにどうしてもなってしまう。その人が勝者になれば、その人よりも少しだけ運や才能や努力が足りなかった人が敗者になるのだ。

スポーツのような競争において、そこにどれだけの時間や労力が投入されても、相対的な勝者と敗者に分かれる構造は変化しない。そして、そのような競争にリソースを投入する人が増えるほど、分配されるもとの余剰が変化しない(あるいは減っていく)のに対して、分配を優先的に得られる勝者の立ち位置をめぐる競争は激しくなっていくので、全員が必死に努力をするからこそ、全員が苦しくなっていく。

つまり、余剰の生産にリソースを投入する「集団のため」と、自分が分配の優先権を得るためにリソースを投入する「自分のため」は、相反する性質があり、「自分のため」にリソースを使う人が増えると、もとの余剰が減っていく一方で、分配をめぐる競争が激化していくので、みんなが必死に努力しているのに生活が苦しくなり続けてしまう、という構造があるのだ。

ただ、相対的な順位が必ず発生する「スポーツ」と、そもそもの生産活動を行う場である「市場」は違うのではないか、と思う人は多いだろう。

しかしここでは、「市場競争(ビジネス)」も、「スポーツ」と同じように、社会全体の余剰を生産するために使えたリソースを、相対的な勝者の立ち位置を競う競争によって消費してしまう性質があると考える。


市場のルールは「自分のため」を許すが余剰を消費する

まず市場のルールにおいて、他人よりも多くの貨幣を稼いだ者は、その貨幣を使うことでより多くのものを購入できる(つまり分配の優先権を得られる)ので、金持ちであるほど「市場競争」の勝者ということになるが、貨幣は「他人よりも多いか少ないか」によって意味を持つ。

もし仮に、政府が国民全員に何百万何千万円を配ったとすると、おそらく貨幣価値が破綻してしまい配られた日本円はむしろ使うことができなくなるだろう。貨幣は相対的な希少性によって意味を持つものなので、全員が多すぎる貨幣を持ってしまうと、その貨幣は貨幣として機能しなくなってしまうのだ。

つまり市場のルールにおいて、「全員が他人よりも金持ち」になることは原理的に不可能で、これはスポーツにおいて勝者と敗者が必然的に発生するのと同様だ。

また、ビジネスは「需要を満たし合うもの」であり、それによって社会が豊かになっていくというイメージを持っている人は多いかもしれない。

しかし実際には、ビジネスは、「万人の需要を満たそうとする」のではなく、「金を稼げる人間の需要を満たそうとする」ものだ。

「相手に金を支払わせなければ金が儲からない」というのが市場のルールなので、金を稼げない人間の需要を満たしてもビジネスにはならない。

そのため、例えば「あまり必死に働かずに楽に暮らしたい」といった多くの人が素朴に持っているであろうニーズは、市場のルールにおいては満たされようとはしない。相手を「金を稼ごうとしない人間」にしてしまうと、金が支払われなくなり、儲からなくなるからだ。

逆に言えば、市場においては、相手を「必死に金を稼ごうとする人間」にするほど、金が支払われやすくなり、利益を得やすくなる。

ゆえにビジネスは、不安や孤立や競争を煽って、「もっとたくさん金を稼がないと駄目だ!」と相手を追い立てるものになりやすい。

ビジネスは、社会全体の暮らしを楽にしていこうとするよりも、むしろ安心して暮らせるような環境を解体していこうとする作用だ。

例えば、家族や地域共同体のような貨幣を介さない信頼関係で生活している集団は、市場での消費量を増やさない。そのような集団を解体して、「一人暮らしの家賃を支払わなければならない」とか「一人につき一台の家電を買わなければならない」といったように、人々を孤立したプレイヤーにしていくほど、消費が増えて金が儲かりやすくなるというのが市場のルールだ。

市場のルールの特徴は、「相手を競争に勝とうとするプレイヤーにするほど、自分が競争に勝ちやすくなる」といったもので、それによって市場はどんどん社会に侵食していくし、貨幣を介さない信頼関係が解体されていき、より多くの人が競争に駆り立てられていく。

「集団のため」を解体して人々を強制的に「自分のため」の競争に引き込んでいくという点においては、「ビジネス」は「スポーツ」よりもさらに自己中心的な性質を持っている。

ビジネスという競争に勝つための方法が、「集団のため」よりも「自分のため」にリソースを使おうとする人間を増やすことであり、そして、そのようなビジネスによって「自分のため」にリソースを使うようになった人間が、自分がビジネスに勝つためにさらに「集団のため」を解体していこうとする。

このような市場の作用によって、「集団のため」ではなく「自分のため」にリソースを使う人・使わざるをえない人が増え続けていく。

そうやって競争が促進されていくのが市場の特徴なのだが、市場は、市場が成立するために必要なものを自分自身で評価することができない。(この内容については「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?」という記事で解説している。)

市場という場が成立するために必要不可欠なものは、当然だが、その市場で活動するプレイヤー(つまり人口)だ。ただ、市場はそのルールにおいて、プレイヤーの再生産をマイナスに評価する。

先に述べたように「金を稼げる人間の需要を満たそうとする」のが市場のルールだが、乳幼児や児童は基本的に金を稼ぐことができない。つまり、子供というのは市場のルールの外部にいる存在なのだ。

「子供を産み育てること」は、長期的な社会や市場の継続にとって不可欠な行いだが、しかし市場のルールは「出生」を評価せず、それどころか実質的に大きくマイナスに評価してしまう。

子育てのためには多くの金や労力がかかるが、それをすることで失われるリソースは、市場競争に勝つために使えば競争の優位を得られた(つまり金を稼げた)であろうリソースでもある。つまり、子供を産み育てることで、プラスになったはずのものがそのままマイナスになるので、市場のルールは実質的に「出生」を大きくマイナス評価していることになる。

逆に、「出生」をプラスに評価しようとするのは、例えば「保守的・伝統的な価値観」や「貨幣を介さない共同体の規範や常識」などだが、これらのようなものが市場によって解体されていくほど、「出生」が評価されなくなり、今の先進国で起こっているように出生率が下がっていく。

さらに市場は、「出生」に加えて、「インフラ整備」や「治安維持・国防」のような、市場という場そのものを整備するような仕事も、自分自身では評価することができない。

市場が機能する前提として必要になる社会を根底から支える仕事ほど、市場で交易される対象にはならないので、市場のルールでは適切に評価することができないのだ。

そのため、社会を支えているエッセンシャルワーカーほど給料が低くなりやすいという問題がある。

つまり、市場は、そのプレイヤーの再生産や、市場という場が成立する前提として必要な仕事を、市場の外部に頼っていながら、市場のルール自体はそれを低く評価する。

そういう意味において、市場そのものが「消費」という性質を持つのだ。

市場が機能するために必要な余剰の生産は、むしろ市場の外部で行われていて、それを消費することで「市場競争」という競技が行われているということだ。

しかし、だからといって市場競争が良くないものであると言いたいわけではない。

例えば「スポーツ」のような競争の社会的役割は、余剰の生産ではなく、各々が自己実現できる場(あるいは身の程を知らされる場)を用意することで、社会に対して公平感や納得感が与えることにあり、そしてそれは、暴力性や加害性を抑制する「ブレーキ」の役目を果たしている。

後々説明していくが、これは「市場競争」にも似たようなことが言える。

ひとまず、ここまでで言いたかったことをまとめると、「社会に必要な仕事をした人ほど金が儲かる(集団のためは自分のためにもなる)」と考えられがちだが、実際には、「集団のため」と「自分のため」は相反する、ということだ。

「集団のため(社会に必要な仕事)」と「自分のため(より多くの金を稼ぐこと)」は素朴に一致するものではなく、両者は共通のリソースを食い合っていて、トレードオフの関係にある。

今の社会で「集団のため」の仕事が行われていないわけではもちろんないのだが、ただ、そういう仕事ほど市場のルールには評価されず、市場のルールに沿って上手に金を儲けようとするほど「自分のため」にリソースを使うふるまいになるということだ。


「モラル(豊かさ)」と「ルール(正しさ)」

ここまでで提示してきた「集団のため」と「自分のため」の相反関係を、ここからは、「モラル」と「ルール」という言葉を使って説明していきたいと思う。

以降では、「モラル」と「ルール」とが対立する、という図式によって、現代社会の仕事・労働における矛盾や問題点を論じる。

ここでは、「モラル」には、「集団のため」にリソースを使うことを「強制する」性質があり、「ルール」には、「自分のため」にリソースを使うことを「許す」性質があると考える。

ここで言う「モラル」は、集団や社会にとって重要なものを評価しようとする気持ち、規範、常識、文化、伝統などがそれにあたる。

ここで言う「ルール」は、職業選択の自由や所有権・財産権など、個人の自由と権利を重視しようとする法律や、市場などがそれにあたる。

「モラル」を重視させようとするものとしては、伝統的な価値観、家族や共同体、ナショナリズムをイメージしてほしい。

一方で、「ルール」によって許された結果として起こるものとしては、ビジネスやメリトクラシーなどをイメージしてほしい。

この「モラル」と「ルール」とで、どちらのほうが良いと言いたいわけではなく、両方とも重要なものなのだが、両方に問題点がある。

この動画では先に、市場競争を例に出して、「ルール」のほうの問題点を述べてきた。「ルール」には、出生やインフラや治安など「集団にとって重要なものを評価できない」という欠点がある。

それに対して、「モラル」は、集団にとって重要なものを評価しようとする。社会集団全体にとって不可欠な試みは、経済的に不合理な「モラル」が機能していなければ成り立たない。

しかし、だからといって「モラル」が手放しに良いものであるとは言えない。

「モラル」は、「集団のため」を評価しようとする一方で、「自分のため」を禁止しようとする加害的な作用でもあるのだ。

例えば、「伝統的な価値観」や「ナショナリズム」には、個人の自由や権利を否定して集団のために従事させようとする、理不尽で暴力的な側面があり、そのような「モラル」の加害性に対して、「ルール」は個人を守る役割を持つ。

このようにして、「モラル」と「ルール」は、どちらも重要なものでありながら、どちらにも問題があり、互いに相反関係にある。

「集団のための仕事をするべき」と強制するような作用である「モラル」は、社会に必要な仕事を評価する一方で、個人の自由を否定する。

それに対して、「自己利益を追求すること」を許すような作用である「ルール」は、個人の自由を肯定する一方で、社会に必要な仕事を評価しない。

これは、このnoteの記事やyoutubeチャンネルなどの動画でも共通して言っていることなのだが、ここで言う「モラル」を「豊かになるが、正しくないもの」「ルール」を「正しいが、豊かにならないもの」、といった言葉の使い方をして対比をさせている。

つまり、「モラル」を「豊かさ」、「ルール」を「正しさ」と置き、「豊かさと正しさが相反する」という図式によって現象を説明しようとしているのだ。

なぜこのような言葉の使い方をするのかというと、今の社会において、「個人の自由と権利の尊重」のような「正しさ(ルール)」の作用は、それが問題になっていても、疑うことが難しいからだ。

現代の価値観において疑うことの難しい「正しさ」を問題視するために、「正しさと豊かさが相反する」という図式を提示して、問題を扱おうとしている。

「正しさ」は、それ自体に価値があるものだが、先に「市場はそれが成立するために必要なものを外部に頼っている」と述べたように、「正しさ」はそれ自体で持続可能なものではなく、「豊かさ」が作り出した余剰を消費することで成り立つ。

一方の「豊かさ」は、「正しさ」に反するものでありながら、「正しさ」が成立するための前提になる余剰を生産する。

これは、個人の自由を否定して集団を重視する「モラル」のような作用がなければ、出生や治安維持などが行われなくなり、やがては市場や法律のような「ルール」も機能不全に陥っていくということだ。

「豊かさ」の欠如によって余剰が失われていけば、長期的には「正しさ」も成立しなくなってしまう。

例えば、「モラル」がなければ「ルール」も守られない、人口(プレイヤー)がいなければ市場も成り立たない、警察力の裏付けがなければ法律も機能しない、など、「豊かさ」に頼らなければ「正しさ」は成立しないのだ。

一方で、「正しさ」は「豊かさ」をマイナスに評価する(自分自身で評価できない)性質があり、対して、伝統的な価値観や「ショナリズムのような「豊かさ」を強めると「正しさ」に反することになるので、両者は相反関係にある。

「正しさ」に反するけれど余剰を作り出すのが「豊かさ」、「豊かさ」が作り出した余剰を消費することで成り立つのが「正しさ」という形で、対立し合う両者は、どちらも重要なものでありながら、どちらにも問題がある、という見方をここではしている。


「アクセル(豊かさ)」と「ブレーキ(正しさ)」

当noteの「なぜビジネスは悪質になるのか?」や「なぜ大多数の国家で資本主義が採用されているのか?」といった記事では、「モラル(豊かさ)」を「アクセル」、「ルール(正しさ)」を「ブレーキ」に喩えて、それぞれの役割を説明してきた。

原動力になるが危険でもあるのが「豊かさ」という「アクセル」で、それを制御するのが「正しさ」という「ブレーキ」、といった見方をしている。

「モラル」は、重要なものを評価しようとするが、ある集団にとって重要なものが他の集団にとっても同じとは限らず、何らかの価値判断や正義は暴走したり激突したりするリスクが常にある。

このような「モラル」は、「集団にとって重要なものを評価しようとするが、それゆえに危険なもの」であり、それを比喩として「アクセル」と考える。

そして、「モラル(アクセル)」の勢いを弱めるのが、「ルール」という「ブレーキ」と考える。

先にリンクを紹介した過去記事では、「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」という考え方を提示してきた。

もし乗用車などに「ブレーキ」の機能がなかったなら、事故が多発するか、ほとんど速度を出せなくなるだろう。

「ブレーキ」があることで「アクセル」を強く踏むことができるので、結果的には「正しさ(ブレーキ)」も「豊かさ(アクセル)」に寄与していることになる。

これは具体的には、市場やメリトクラシーのような「ブレーキ」の作用があるからこそ、近代国家(ナショナリズム)のような大規模な社会(強いアクセル)を破綻させずに維持することができている、ということだ。

「ルール(ブレーキ)」がなくて「モラル(アクセル)」だけ、というのは、それぞれの独善的な正義がぶつかりあって、すぐに関係が破綻したり戦争が起こるような状況だ。

「モラル」だけでは、大規模な社会を維持することができない。

「ルール」という「自分のため」を許して個人を納得させる作用があるからこそ、集団同士の争いが起こりにくくなり、それが長期的な社会の存続に繋がる、というイメージだ。

しかし、あくまでも「ルール」は「ブレーキ」なので、それを踏み続けると社会は衰退に向かっていく。

この「アクセル」と「ブレーキ」の比喩において、「市場競争」は「ブレーキ」ということになる。

GDPという指標には欠陥があるのではないか?」という記事などでは、「GDP」を、「ブレーキが踏まれた量を計測して、アクセルが踏まれた量を推測する」ような指標であると説明している。

市場での交易という「ルール(正しさ)」に準拠した取引の量を計測するのがGDPだが、GDPの向上は、長期的な国力にとって最も重要な人口(出生率)を減らしていく。

GDPは「ブレーキ」の量を計測するような指標で、それゆえに、GDPが向上した国家(つまりブレーキが強くなった集団)は、人口の増加のような「アクセル」が弱まっていく。

一般的には、市場が生産を促進する「アクセル」の作用であると考えられやすいが、ここでは市場が「ブレーキ」であると考えるのだ。

また、これは「競争を疑うのが難しい理由」という記事で説明したことだが、我々は個人の主観としては、「アクセル」と「ブレーキ」を混同してしまいやすい。

個人の視点からすると、自分の自由を否定する「伝統的な社会」などが「ブレーキ」であると思いやすく、自由競争を肯定する「市場」や「メリトクラシー」を「アクセル」であると思いやすいのだ。

しかしこれは実は逆で、人口の再生産のような「生産」にとって不可欠なものを評価しようとするのは実は「伝統的な社会」のほうであり、先に説明してきたように、「市場」は、生産にとって重要なものを評価せず、分配の優先権を争う競争を激化させていくので、むしろリソースを空費するような作用になる。

ただ、個人の主観としては、自分が競争に勝つために必死に努力していることを「アクセル」に感じて、競争が否定されて集団のための仕事に従事させられることは「ブレーキ」に感じやすいという事情がある。

先に、「スポーツ」や「ビジネス」などの競争の社会的役割は、余剰の生産ではなく、公平な競争によって勝敗をつけることで各々を納得させ、暴力性や加害性を抑制することであると述べた。

競争に勝つことで報酬を得られる社会であれば、潜在的には集団を結成して暴力的な革命を起こしたかもしれない人間も、個人として競争に勝つために自分のリソースを使い、勝てば満足するだろうし、負けても自分の立ち位置を思い知らされるという形で、いずれにしても大人しくなる。

「ルール(によって許される競争)」は、「生産に寄与しないリソースが消費されるが、個々人に公平感や納得感が与えられて社会が安定する」といったもので、これは役割としては「ブレーキ」になるのだ。

そして、それは「ブレーキ」であるがゆえに、強くなりすぎると、社会を豊かにする可能性も失われていく。

以上で説明してきたことは、社会通念を疑うような話になるので、ここでの説明が足りないと思う方は、過去記事などを参考にしてほしい。


「正しさ」の過剰という問題

ここまで、「モラル:豊かさ:アクセル」と、「ルール:正しさ:ブレーキ」という対比を提示してきたが、繰り返し言うように、「モラル」と「ルール」はどちらも重要なものでありながら、トレードオフの関係にあって、片方が強まりすぎるともう片方が機能しなくなる。

  • 「モラル」が強すぎると、理不尽で危険な社会になり、「正しさ」の欠如が問題になる。

  • 「ルール」が強すぎると、集団のために必要な仕事が行われなくなり、「豊かさ」の欠如が問題になる

近代において、市場競争やメリトクラシーなどの「ルール」の作用が浸透していくことが望ましいと思われやすかったのは、当時は「モラル」が過剰な社会だったからだ。

かつては、伝統的な規範や圧力によって個人の自由や権利が理不尽に否定されていたし、ナショナリズムを機能させた国家同士で戦争が行われていた、「モラル」が強すぎる社会だった。

そこに「ルール」が浸透していけば、「豊かさ」と「正しさ」のバランスが良くなっていくので、社会が良い方向に向かっていったと思われやすかっただろう。

それに対して、現状の問題は、「ルール」のほうが過剰になっていることだ。

しかし、近代の成功体験からか、現代人の多くがまだ「ルール(正しさ)」を疑えていないように思う。

それゆえに、「正しさ」の行き過ぎが問題になっているのに、「もっと競争に勝てる強い個人を育てるべきだ」とか「もっと個人の権利が尊重される社会を目指していくべきだ」ということが言われがちなのだ。

「豊かさ」の欠如が問題になっているときに「正しさ」を強めようとするのは、「アクセル」が足りないときに「ブレーキ」を強く踏もうとするようなもので、状況は悪化し続けていく。

もっとも「正しさ」は、それ自体がまさに「正しい」ものであるがゆえに疑うのが難しいという事情があって、ゆえにここでは、「正しさ」の過剰という問題を示すために、「正しさ」と「豊かさ」が相反するという図式を提示してきたのだ。


なぜ働くのがつらいのか?

「モラル(豊かさ)」と「ルール(正しさ)」の相反関係を説明してきた上で、「なぜ働くのがつらいのか?」についてまとめると

  • 「ルール(正しさ)」の過剰により、各々が「自分のため」に必死に努力するからこそ、社会全体では余剰が生産されずに全員が苦しくなっていく構造があること

  • そして、そのような問題が認識されているわけではなく、「アクセルが足りないときにブレーキを踏む」ような、さらに「正しさ」を推し進める解決策が提案されがちなこと

といった理由によって、多くの人が「働くのがつらい」と感じるような社会が形成されていると、ここでは考える。

現代の労働は、「モラル」と「ルール」との板挟みのような状態にある。

もっとも、現実に行われている仕事のほとんどは、それと認識されていなくても、「良い仕事をしたい」という「モラル」と、「金を稼ぐ必要がある」という「ルール」とのバランスを取りながら行われているだろう。

ただ、「両方のバランスをうまく取りながら」といった牧歌的なやり方も、「ルール」の影響力が強まっていくにつれて、だんだん苦しくなり、成り立たなくなっていく。

「悪貨は良貨を駆逐する」ように、良心を発揮してバランスを取りながらやっているようなぬるいビジネスは、「ルール」の上で勝つことを徹底するビジネスに淘汰されていきやすい。

ビジネスでより多くの金を稼ぐためには、市場のルールに許される限りで、その競技を全力でプレイすることが合理的になる。そして、そのように「ルール」を徹底するからこそ、それは他人にとって悪質なものになりやすい。(これについて詳しくは「なぜビジネスは悪質になるのか?」を参考にしてほしい。)

例えば、スポーツのような競争において、勝つために、「ルール」の範囲内でディフェンスなどの相手を不利にする行為をするのは当然のことだ。

「ビジネス」という競争におけるそれは、例えば、不安やコンプレックスなどを煽って相手が買わなければならないものを作り出したり、意図的に複雑化を進めて自分が有利になるポジションを確保したり、情報の非対称性などを利用して高い料金を支払わせたりする、といったふるまいになる。

相手に不利を負わせたり、相手の弱みにつけこんで、より多くの金を支払わせようとしたほうが、「ルール」の上では勝ちやすくなる(金を稼ぎやすくなる)という側面が否定しがたくあるのだ。

とはいえ、だからといって「ルール」が悪いというわけではない。

この記事で何度も述べてきたように、むしろ「モラル」のほうが、個人としての我々にとっては理不尽かつ加害的であり、「ルール」はむしろ、個人の自由や権利を守ろうとする性質のものになる。

問題なのは、社会は「ルール」を受け入れられるプレイヤーのみで構成されているわけではないことだ。

スポーツの場合は、競技への参加に同意した人のみでそれが行われるが、ビジネスは、否応なく社会全体を「ルール」に巻き込んでいこうとする作用だ。

そして先に説明したように、乳幼児や児童などは市場という「ルール」の外部にいる存在なので、「ルール」が徹底されていくほど、子供を産み育てられない社会になっていくし、長期的には社会そのものが成り立たなくなっていく。

もっとも、大半の人は、「ルール」に許される限りにおいて全力でビジネスをしようとするわけではなく、ためらいを感じるだろう。

「モラル」を持っている人ほど、「これをやると相手は不幸になるんじゃないか」「この仕事は本当に世の中のためになっているのだろうか」と感じやすいのが現代の仕事であり、そして、そのようにためらいを持ってしまうのは、スポーツであれば「相手側の気持ちに立ってディフェンスをするのをためらう」ようなものなので、当然ながら市場競争において不利になっていく。

そのような社会において、「相手を幸せにしたほうが金が儲かるから、金を稼ぐのは良いことだ」みたいな前提を無批判に受け入れて金儲けに全力を出せるサイコパスのような人間ほど成果を出しやすくなり、思いやりや規範や公共心を持っている人ほど、あまり成果を出せなかったり、鬱病になったりしてしまう。

しかし、だからといって「モラル」の側に振り切って、わかりやすく他人の幸福に貢献できるような仕事に従事しようとした場合、また別の地獄が待っていることになる。

社会に必要な仕事は、当然ながら今も懸命に行われていて、それは主に経済的に不合理な「モラル」によって維持されている。

ただ、そのような「モラル」を強めて重要な仕事を行おうとする場は、「ルール」に沿った合理性を無理やり否定しようとすることになるので、それはそれで極端に理不尽な環境になりやすいのだ。

「モラル」を重視して社会に必要な仕事を行おうとする職場は「ブラック化」しやすいのだが、ただそれは、政治家が悪いとか経営者が悪いという話ではなく、市場のルールに適切に評価されない仕事を市場のルールでやらざるをえないからで、そもそもの構造に無理があるのだ。

社会を支える仕事ほど、「モラル」を強く機能させなければ成り立たず、それゆえに「ルール」を否定しなければならなくなるので、理不尽が横行しやすく、給料も社会的地位も低くなりやすいという問題がある。

ここで説明してきた、仕事・労働における「モラル」と「ルール」の問題は

  • 「ルール」を重視して「自分のため」にリソースを使おうとすると、長期的には社会を衰退させていく構造に加担してしまうことになる

  • 「モラル」を重視して「集団のため」にリソースを使おうとすると、社会を支える仕事をしているのに待遇が悪い、という理不尽さの中で働かなければならなくなる

というような地獄の二択があって、「ルール」側を選べば後ろめたく、「モラル」側を選べば不満が溜まる、といった板挟みの状況の中で働かなければならないことだ。

そして、今も「ルール」の影響力が強まり続けているのだが、その構造から抜け出しにくい理由として、「ルール」を疑ってしまうような人間は競争に勝てなくなり、社会的な発言力も得られなくなる、という事情もある。

「ルール」における勝者が力を得る社会だからこそ、「ルール」を疑えなくなっていくという構造があるのだ。

しかし、ビジネスやメリトクラシーにおける成功者がどれだけ意識の高いことを言っても、そもそも現状の社会は、過去の伝統的な社会が作り上げた余剰を消費して成り立っている持続可能性のないものに過ぎず、今も少子化が進んで労働人口の比率が減り続けていて、状況をどんどん悪くしながら破綻に向かっている。

未来が先細りしていくなかで、不毛なビジネスのために必死に競争するというものすごくバカバカしいことをみんなで一生懸命やっているのが現状だが、しかしそれを放棄して競争から降りた人間は、自分が結婚したり子供を作ったりするような待遇や余裕を得られなくなってしまう。

これは構造的な問題であり、個人が突発的に「モラル」を発揮しようとしても、それをしようとした当人が不利になるという形で、その試みが難しくなってしまうことが多い。

このような問題に対して、「ではどうすればいいのか?」を、以降で説明していく。


ではどうすればいいのか?

ここまで、「なぜ働くのがつらいのか」の説明をしてきた。ここからは、「ではどうすればいいのか?」について述べる。

ただ、すでにここまででかなり内容が長くなっていることもあり、以降では、概要をざっくり述べていくような内容になることをご了承いただきたい。

ここから話す方法については、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトを公開しているので、より詳しい内容についてはサイトを読んでみてほしい。ここからの内容は、サイトの内の主に第5章で説明している。

サイトのほうでは、「豊かさ」と「正しさ」の相反関係において、社会を「豊かさ」に傾ける方法をいくつか説明していて、「べーシックインカム」というのもその方法のひとつなのだが、今回は「仕事・労働」がテーマなので、それに関連する方法について話そうと思う。

それが方法なのかというと、「ビジネス」に「ルール違反」を組み込むというやり方になる。

ここからは、「ルールのためのコストを踏み倒してビジネス(生産活動)をする」ことで、社会を「モラル(豊かさ)」の側に傾けていこうとする方法について説明していく。

当記事において、前提として述べてきたのは、まず、「モラル」と「ルール」とで、今は「ルール」の側に偏りすぎているのが問題だが、だからとって「モラル」の側に振り切ればいいというわけではないことだ。

「ルール」が否定されすぎる(「モラル」が強まりすぎる)のも問題なので、極端になりすぎない程度に「モラル」のほうを強める必要がある。

次に、「ルール」が過剰な現状において、個人レベルで「モラル」を強めようとすると、それをやろうとした当人が不利になってしまうというのが、この動画で説明してきた構造的な問題になる。

そのため、何らかの方法は、社会全体のための自己犠牲を前提にするような、強く「モラル」に頼ろうとするやり方ではなく、それを行う当人たちにとっても合理的なメリットのある活動でなければならないと考える。

そして、「モラル」と「ルール」とが相反するという見方において、「モラル」を強めようとする試みは、近代教育を受けた人間にとってはある種「ルール違反」のように映るであろうことも指摘したい。

「ルール」に反する試みが、単にズルをしようとしているのではなく、重要なものを評価しようとするからこそ「ルール違反」になることを示すために、この記事ではここまで、「ルール」に沿って努力をすれば社会全体が豊かになっていく、という通念を否定する内容の話をしてきたのだ。

まとめると

  • 「モラル」と「ルール」とのバランスにおいて、極端になりすぎない程度に「モラル」を強める

  • 「モラル」を重視しようとする当人たちにとって合理的なメリットのあるやり方でなければならない

  • 近代的な価値観からは「ルール違反(悪いこと)」に思われやすいが、それでも必要である

ことを意識する。

ちなみに、ここでは「モラルとルールが相反する」という見方を示しているが、この対比においては、「モラルが評価されるルールを作っていくことが重要」といった話にはならない。これについては、「ルールを改善していけば社会が良くなるわけではない理由」という記事を参考にしてほしい。

以上を踏まえた上で、ここからは、「ルールのコストを踏み倒すビジネス」について説明していく。


ルールのコスト

今の社会において、例えば、会社という形で人を雇用してビジネスを行うと、「ルール」のためのコストがかかり、そして、そのコストは時代を経るにつれて重くなり続けている。

「ルール」のために必要なコストは、かなり色々とあるのだが、ここでは簡略化して、主に、「自由市場で比較されるコスト」「各々がプレイヤーとして対立するコスト」「事務や手続きのコスト」「税金」がかかると考える。

まず「自由市場で比較されるコスト」について、「ルール」は自由競争を許す性質のものだが、自由市場においては、全員がグローバルに競合と比較されるような状態になるので、自分が他より少しでも上であると示すためにコストを支払わなければならなくなる。

これはイメージとしては、「近所の人とのお見合いが主流だった時代は、ルックスを磨く努力などをしなくても大半の人が結婚できたが、マッチングアプリだと、みんなが努力しているのにほとんどの人が結婚できなくなった」といったような感じだ。

労働市場においても近いことが起こっていて、昔は、知り合いのツテや学校の紹介などで近くの会社に就職することが多く、それは不自由な社会ではあったが楽だった。

今は、企業側も労働者側も、自由市場で比較されるようになり、「いかに自分が他よりも優れているか」をアピールするためにリソースを使わなければならなくなった。そうしないと、企業は労働者に選ばれず、労働者は企業に採用されないからだ。

このコストは、仕事を始める前提である「雇う・雇われる」というフェイズでかかるものなので、基本的に市場でビジネスをする上では避けられないものになっている。

このような「自由化(グローバルな競争)」によって、食料生産やインフラ整備など素朴に社会の役に立つ仕事をしているような会社も、就活生向け・転職希望者向けのPRを業者にお願いしたり、転職サイトに金を払ったりして、他の企業よりも優れていることをアピールしなければならなくなった。

採用した後も、転職されると困るので、その仕事が有利なキャリアに繋がることを示すなどして、労働者を繋ぎ止めるための工夫をしなければならなくもなった。

とはいえ、それで労働者が楽になるというわけではなく、労働者側も、いかに自分が他よりも優秀なのかをアピールしたり、客観的に信用されるようなキャリアを意識しなければならなくなった。

そして、これらのようなことに割かれるコストは、「物質的な豊かさの生産」という観点からは、無駄にリソースを消費していることになる。

では、「そんな無駄なことをせずに近くにいる人たち同士で適当にやればいいじゃないか」と思うかもしれないが、「ルール」がそれを許さない。

企業は、いちど労働者を雇うとノーコストで解雇することができない。さらに、労働者の様々な事情に配慮しなければならず、法律で定められた最低賃金以上の給料を必ず支払う必要がある。

そのような「ルール」自体は、何度も言ってきたように決して悪いものではなく、労働者の権利を守る重要なものだ。しかしその「ルール」は、無条件に望ましいものというわけではなく、「生産とは関係のないコストがかさんでしまう」というデメリットがあるのだ。

「ルール」が介在するようになることで、「面倒くさいことを言い合わない同じ仲間同士」といったような協力関係が解体され、「各々がプレイヤーとして対立する」ような状況になる。

各々が「ルール」に保障された権利を持っていて、自身の利益を重視するプレイヤーになるほど、素朴に信頼し合える間柄ではなくなっていき、「騙されるかもしれない・自分が損を被らされるかもしれない」というように、互いに警戒し合うような関係になっていく。

企業は変な労働者を掴むと損をするので、採用に慎重になる。労働者側も、そうやって採用されるのに手間がかかるようになったなか、せっかく入社した企業が合わないと損失が大きいので、企業を警戒するようになる。

そのため、情報の吟味、契約の交渉、信頼関係の構築などに、かつてよりも多くのリソースが割かれるようになり、そしてそれも、「物質的な豊かさの生産」とは関係のないコストになる。

ここでは「企業経営や雇用において必要なコスト」について論じているが、当然ながら「各々がプレイヤーとして対立するコスト」は、事業者と消費者などが市場でやり取りするときにもかかる。

市場で取引すること自体が、ある種「プレイヤーとして合理的なふるまいをしなければ損をしてしまう」という性質のものであり、素朴な良心によって生産物を融通し合う場合に比べて、各々が自身の有利さを確保し合うためのコストがかかってしまうことになる。

次に、「事務や手続きのコスト」だが、これについてはそれほど説明はいらないだろう。企業は、法務や税務などをこなすために多くのコストをかけている。それも、昔はわりと雑にやっていたのを、今はちゃんとやらなければ許されなくなってきていて、配慮しなければならないことなども増え続けている。

最後に「税金」だが、当然ながら、市場で取引をするたびに税金がかかる。

これについては、「べーシックインカムとは何か?」という記事で解説しているのだが、実は税金は、市場のルールによる秩序を国家権力によって否定することであり、それが主に出生支援などの将来に繋がる分野に支出されるのであれば、「正しさ」よりも「豊かさ」を重視する作用になる。

しかし今の日本では、税金のほとんどが社会保障費などの「正しさ」のために支出されているので、「税金」も「正しさ(ルール)」のためのコストになっている。

つまり、我々が市場において何らかの生産活動をすると、その現物を作る、物質的な生産のために必要な時間や労力に加えて、「自由市場で比較されるコスト」「各々がプレイヤーとして対立するコスト」「事務や手続きのコスト」「税金」などのコストが上乗せされることになる。

そしてここでは、これらのコストを踏み倒すためにはどうすればいいのかを考える。

その方法は、「自給自足」だ。

貨幣を介さずに、自分たちに必要なものを自分たちで生産すれば、ここで挙げてきた「ルール」のコストの多くを回避することが可能になる。

もちろん「自給自足」を個人でやるのは効率が悪すぎるので、ある程度のローカルな規模で分業してやろうとすることになるが、そのときに、「日本円」という法定貨幣の信用に頼るのではなく、もっとローカルな信用を使ってやり取りをする。

当然だが、日本円を使う場合は「ルール」のコストを支払わざるをえない。(日本円の信用を利用した上でそのコストを踏み倒すのは犯罪。)

一方で、「ルール」のコストの多くは、貨幣を意図的に否定して「自給自足」をするならば、それを回避することが可能だ。

以降では、意図的に貨幣(日本円)を否定することによって、「ルール」のためのコストを踏み倒そうとする方法について説明する。


「貨幣を介さない(自給自足)」という選択肢

食料や住居やインフラなど、我々は、生活に必要なものを何らかの方法で入手しなければならない。

現状で、ほんとの人は、会社などで働いて貨幣を稼いで(つまり労働力を貨幣に変換して)、その貨幣を使って生活に必要なものを市場から購入する。

この場合、消費税などをイメージするとわかりやすいが、取引のたびに「ルール」のための膨大なコストがかかって、ロスが大きい。

一方で、ここで言う「自給自足」は、ローカルなコミュニティを作って、自分たちに必要なものを自分たちで生産し、自分たちの裁量で分配して、生産物を直接的に享受しようとする。労働力を使って直接生活に必要なものを作り出すということだ。

これはもちろん簡単なことではないが、貨幣を介さないので、「ルール」のためのコストを回避することができる。

そして、食糧生産、住環境の構築、インフラ整備、育児など、市場のルールには評価されにくいが重要な仕事は、貨幣を介さないローカルなコミュニティで行ったほうが、むしろ割が良くなるのではないか、と考える。

例えば、現代において、一軒家を購入するために十分な貯金を貯める(あるいは社会的信用を得てローンを組む)というのは、一般的な労働者にとって、非常にハードルの高いものになっているように思う。

住む家を手に入れることは、それこそ近代化以前から行われていたことなのに、効率化が進んでいるはずの現代において、多くの人が住居を手に入れられなくなっているといった、矛盾したようなことが起こっている。

その理由のひとつとして、現物を作る効率化自体は進んでいても、それ以上に「ルール」のためのコストが膨れ上がっていることが挙げられる。

だとしたら、平均的な労働力を有している人の立場からして、その労働力を市場で貨幣に変換して住居を購入しようとするよりも、「もしかして自分たちで作ったほうが楽なのではないか?」という発想になってもおかしくはないかもしれない。

今の社会は、「貨幣を介して市場で取引をすることで効率的な社会的分業が行われて、それによって社会全体が豊かになっていく」というのが前提だが、専門性や分業による効率化よりも、「ルール」を介することによるロスのほうが大きくなっているのではないか、ということだ。

素人集団が「自分たちに必要なものを自分たちで作る」のは、現状の専門家が行っている仕事に比べて、もちろん効率が良いわけではないだろうが、ただ、「自分たちで作って自分たちで享受するなら、それは単純に効率が良くなっていったほうがいい」という真っ当なインセンティブがあるので、長期的には、今の市場で行われているやり方とは別の形の、効率化・省力化・自動化などを進めていける可能性がある。

そのため、長期的な視点で見れば(あるい出生支援などの長期的な社会存続のためを考えるならば)、「自給自足(自分たちに必要なものを自分たちで作る)」というやり方のほうが、差し引きでビジネスを上回りうると考える。

自給自足コミュニティと言うと、何らかの極端な思想を持って、近代化以前の非効率なやり方で自給自足をしようとするような集団を思い浮かべる人が多いかもしれない。

しかし、ここで想定している自給自足コミュニティは、単純に自分たちが得をするための手段として、自分たちで自分たちに必要なものを生産しようとする。

そのため、現代文明を否定するようなことはもちろんせず、むしろテクノロジーを駆使して効率化に全力で取り組もうとする。

また、効率化のための分業を否定するわけでもない。ただ、日本円のような法定貨幣を介するのではなく、自分たちのローカルな信用によって労働力をやりくりしようとするのだ。

当記事で先に説明してきた市場競争(ビジネス)などの「ルール」の問題は、「豊かさ」が評価されないことだ。相手の生活を楽にしてしまうと儲からなくなる市場のルールなどにおいて、そもそも生活を楽にするインセンティブがないこと・マイナスのインセンティブがあることが問題なのだ。

それに対して、「自分たちに必要なものを自分たちで生産して自分たちで享受する」のであれば、当然ながら、その効率化が進んだほうがいいという、真っ当なインセンティブがある。

そのため、自給自足コミュニティは、最初は効率が悪くても、長期的には効率化が進んでいく期待を十分に持てると考える。

現代はインターネットなどで知見や方法が共有されていくので、ローカルな自給自足に取り組む人たちが増えれば、直接的に生活を豊かにしていく方法のノウハウが積み重なっていくかもしれず、そのような蓄積が「豊かさ」に繋がっていきやすいだろう。

また、「ルール」のコストを踏み倒す手段として貨幣を否定するが、「貨幣を一切使わない」といったような極端な話ではない。あくまで、自分たちに有利になりそうな範囲において日本円を介した取引を否定する。

それを行う当人の判断で、貨幣を介さないほうが有利だと思うならばローカルな信用で、貨幣を介したほうが有利だと思うならばビジネスで、非貨幣的・貨幣的な活動を使い分けることを想定している。

もちろん、法定貨幣の信用を利用したぶんは、「ルール」のコストをちゃんと支払う必要がある。(言うまでもなく、法定貨幣を利用しながらルールのコストを踏み倒すのは、脱税などの犯罪に当たる。)

ただ、「ローカルな信用」という「モラル」のリスクを負って活動した場合は、そのリターン(「ルール」のコストを踏み倒せるなど)を享受する正当性はある。


「ルールのコスト踏み倒し」によって社会を「豊かさ」に傾ける

ここで論じたいのは、自給自足コミュニティが「ルール」のコストを踏み倒しながらビジネスに参入することで、社会を変化させていくこと(ゲームチェンジ)が可能になるのではないか、ということだ。

「ルール」のコストを踏み倒す集団がビジネスに参加し、そのやり方が通常の企業よりも優位性を得ることによって、社会を「正しさ」から「豊かさ」に傾けていくことができると考える。

企業は、従業員に給料として一定の貨幣を支払うのが「ルール」だ。つまり、従業員に給料を出せるだけの十分な貨幣を稼ぐことのできないビジネスは、継続が不可能になることを意味する。

それに対して、自給自足コミュニティは、自分たちに必要なものを自分たちで生産して、まずは直接的に生活の余裕を作り出そうとする。そして、そうやって生活の余裕を担保した後に、貨幣収入を得るためにビジネスに参入するのだ。

この場合、給料を支払うために多くの貨幣収入を得る必要はないし、ランニングコストを抑えながらビジネスに取り組むことができるので、それがアドバンテージになる可能性がある。

飲食店を開きたいとか、イベントを開催したいとか、ゲームを作りたいとか、ビジネスの内容は何でもいいのだが、「まずは全員で生活のために必要な仕事を終わらせて余裕を作ってから、やりたいことに取り組む」という方法のほうが、より良い仕事をしやすく、既存のビジネスに対して優位性を得られるかもしれない。

そして、コスト踏み倒しの優位性を活かしてビジネスに成功するような共同体が出てきて、そういうやり方の強さが認知されていけば、同じようなやり方をしようとする人たちが増えていく可能性がある。

そのようにしてローカルな自給自足コミュニティが増えていくと、社会が今よりも「豊かさ」の側に傾いて、「社会に必要な仕事(余剰を生産する仕事)」が行われやすくなると考える。

この記事の前半で説明してきたのは、現状の市場のルールにおいて、「余剰を生産すること」と「分配の優先権を得ること」は相反関係にあり、多くの人が後者のためにリソースを使うようになるから全員が苦しくなってしまう、という構造があることだ。

それに対して、自給自足コミュニティの場合、まず「余剰を生産すること」に全員で取り組んで、生活の余裕を得てから、「分配の優先権を得ること(金儲けをすること)」に取り組む。

こういうやり方をする集団が増えると、現状の市場競争に比べて、「社会に必要な仕事」が行われやすくなることが想定される。競争に参加する前段階として、余剰を生産しようとするからだ。

この「ルールのコストを踏み倒した上でビジネスに参加する」というやり方は、現代の多くの人の感覚からすれば、「ルール違反」であり、「ズルをして金を稼ごうとしている」となるかもしれない。

しかし当記事で説明してきたのは、「ルール」に反するものが「豊かさ」に繋がる、ということであり、「ズルをしている」ように見えるやり方だからこそ、実は「豊かさ」が評価されるのだ。

また当記事では、「モラル」と「ルール」とのバランスにおいて、「モラル」の側に極端に振れすぎるのも避けるべきとも述べた。

ここでは、自給自足コミュニティがビジネスに参加して貨幣を稼ごうとするのは、むしろ「安全」のために望ましいことであると考える。

もし、自分たちに必要なものを自給自足できる集団が、「日本円なんていらない」というくらいまで自分たちのローカルですべてを賄うようになったなら、「ルール」という「ブレーキ」がまったく効かず、「モラル」という「アクセル」が強すぎるような、非常に危険な状態と言える。

ゆえに、「コストを踏み倒しながらもビジネスをして金を稼ぎたい」と考えているくらいが、「モラル」が過剰になりすぎない(「ルール」が機能している)状態ということになる。

完全に市場や法定貨幣を否定する自給自足コミュニティではなく、「コストを踏み倒すビジネス」だからこそ、「モラル(豊かさ)」と「ルール(正しさ)」のバランスが取れていると考えるのだ。

ただ、「市場競争によって社会が豊かになる」と考えている人からすれば、この「コスト踏み倒しビジネス」は、健全な市場競争を歪めて不当に利益を得ようとする言語道断な行いに思えるだろう。

しかしそうではないということを説明するために、当記事の前半では、市場のルールの構造的な問題について論じてきたのだ。

現状の市場のルールにおいては、どれだけ努力してビジネスの勝者になっても、それ自体が社会を衰退させていく構造に加担することになってしまう。

一方で、この「コスト踏み倒しビジネス」を成功させて、既存のビジネスを上回れば、それによって社会を「豊かさ」に傾けていくことが可能になる。

「普通に会社をやるよりも、コスト踏み倒しビジネスのほうがメリットが多い」と社会に認知させることで、ゲームチェンジを試みるのだ。

ローカルなコミュニティを結成して、生活に必要なものをそれなりに賄えるようにして、そこからビジネスを起こしてある程度成功すれば、それによって市場のルールに影響を与えることができる。

もちろんそれは決して簡単なことではないが、「大勢の意見を変えて政治を動かす」などと比べれば、まだ現実的な可能性があるように思う。

そしてこれは、自己犠牲が前提の社会革命というわけではなく、それを始めた当人にとっても、自分自身の生活をより楽にする方法・自己実現のための試みを有利にする方法になりうる。

つまり、先に述べてきた、「モラル」を重視しようとする当人たちにとって合理的なメリットのあるやり方、であることを意識している。

とはいえ、このような「ルールのコストを踏み倒すビジネス」が、単純に望ましいものであると言うつもりはない。

そもそもここでは、「モラル(豊かさ)」と「ルール(正しさ)」とで、どちらも重要だが両方に問題点があるとしているし、もちろん「モラル」を強めることにも多くの問題がある。

自給自足コミュニティは、属人的信用や口約束の延長で何かをやることになり、それゆえに仲間内での「モラル」に頼ることになりやすいが、このやり方はかなりリスクがあって、例えば、何らかのトラブルが起こっても、日本円に付随している「ルール(法律)」に準拠して解決することができないなど、欠点も非常に多い。

ここで言う「ルール違反」とはすなわち、「モラル」に頼る度合いを強めようとするということであり、その試みこそが「豊かさ(アクセル)」の評価に繋がるのだが、それはそうであるがゆえに危険なことでもある。

ただ、「ルール」に準拠できないリスクと、「ルール」のコストを踏み倒せる(「モラル」を強く機能させられる)リターンとを秤にかけて、これからますます「ルール」のコストが大きな社会になるのならば、いずれは「モラル」側のリターンのほうが大きくなりうるのではないか、ということだ。

では、ここで述べた「自給自足コミュニティ(ルールのコストを踏み倒すビジネス)」をやろうとした場合、日本政府の権力や既存の法律とどのように衝突するのか、道義的責任や社会的役割についてどう考えればいいか、など、まだまだ説明するべきことはたくさんあるのだが、さすがに長くなりすぎているので、今回はここまでにしたい。

ここで紹介してきた「ルールのコストを踏み倒すビジネス」という社会革命の方法については、もっと色んな論点があるので、これからも関連する内容の投稿をしていきたいと思う。

現時点でより詳しい内容を知りたい方は、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトを参考にしてほしい。


まとめ(なぜ働くのがつらいのか?)

  • 今の社会においては、「集団のため」と「自分のため」が素朴に一致すると考えられがちだが、両者は共通のリソースを食い合い、相反関係にある。

  • ここでは、「モラル」には、「集団のため」にリソースを使うことを強制する性質があり、「ルール」には、「自分のため」にリソースを使うことを許す性質があると考える。

  • 「モラル」を強めると「豊かになるが、正しくない」、「ルール」を強めると「正しいが、豊かにならない」と考える。

  • 「モラル(豊かさ)」は「アクセル」として作用し、「ルール(正しさ)」は「ブレーキ」として作用する。

  • しかし、一般的には「ルール(正しさ)」が「ブレーキ」ではなく「アクセル」と思われており、「アクセルが足りないときにブレーキを踏む」ような、「豊かさ」が欠如しているという問題に対して、ますます「正しさ」を強めようとする解決策が行われがちである。

  • 現代の労働は、「モラル(良い仕事をしたい)」と「ルール(金を稼ぐ必要がある)」とのバランスを取りながら行われているが、「両者のバランスを取りながら」という牧歌的なやり方は、「ルール」の影響力が強まるほど淘汰されていきやすい。

  • 「ルール」を徹底して「自分のため」にリソースを使うと、少子化などが進み社会が衰退していく構造に加担することになる。一方で、「モラル」を重視して「集団のため」にリソースを使うと、社会を支えているのに待遇が悪いという理不尽のなかで労働しなければならなくなる。


まとめ(ではどうすればいいのか?)

  • 「モラル(豊かさ)」と「ルール(正しさ)」とのバランスにおいて、極端になりすぎない形で「モラル」のほうを強めるための方法のひとつとして、「ルールのコストを踏み倒すビジネス」について説明した。

  • 「ルール」は、「自由市場で比較されるコスト」「各々がプレイヤーとして対立するコスト」「事務や手続きのコスト」「税金」など、物質的な生産(豊かさ)とは関係のないコストを増やしていく。それを否定して非貨幣的(ローカル)な共同体で「自給自足」を試みれば、「ルール(正しさ)」よりも「モラル(豊かさ)」を重視することになる。

  • 食糧生産、住環境の構築、インフラ整備、育児など、生活に不可欠だが市場のルールには評価されにくい仕事は、「ルール(市場・貨幣)」を介さずにローカルなコミュニティで行ったほうが、それを行う当人たちにとっても割が良くなる可能性がある。

  • 「自分たちに必要なものを自分たちで作ること(ローカルな自給自足)」は、最初は効率が悪いが、相手を不利にすると貨幣を稼ぎやすくなる市場のルールとは異なり、「自分たちで作って自分たちで享受するなら、それは単純に効率が良くなっていったほうがいい」という真っ当なインセンティブがあるので、効率化・省力化・自動化などを進めていける可能性がある。

  • 「ルールのコストを踏み倒すビジネス」は、まず自給自足コミュニティの活動によって、非貨幣的に生活に必要な余剰を担保してから、その生活の余裕というアドバンテージを活かして、貨幣収入を得てより有利になるためのビジネスに乗り出す。

  • 従業員に給料を支払わなければならない企業に対して、自給自足コミュニティによる「ルールのコストを踏み倒すビジネス」は、ランニングコストが低いなどの優位性があり、そのようなやり方の強さが認知されて、同じように「ルールの踏み倒し(豊かさの評価)」を試みる集団が増えれば、社会が今よりも「豊かさ」の側に傾いていきやすくなる。

  • 「モラル(豊かさ)」を強めることにも多くのリスクがあるが、これから「ルール(正しさ)」のコストが重くなり続けていくなかで、両者のメリット・デメリット(リスク・リターン)を秤にかけて、「ルール」よりも「モラル」の側を選ぶ人が増えていく可能性がある。


今回の内容は以上になります。

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