祖父の寝巻き

今どき浴衣で布団に入るのは温泉宿に泊まった時くらいだろう。明治生まれの祖父は昼間はワイシャツにベルトをしてズボンだったが、夕方お風呂に入ると浴衣に着替えた。寒がりだったのでその浴衣の下は夏でも長袖の下着にステテコで浴衣一枚ではだけているようなこともなかった。冬ともなれば何枚も重ねて着ていた。その下着はというとラクダ色をしていて最近ではまったくみかけない。お風呂に入ってから夕飯だったので晩酌の時は浴衣を着ていたのだけれどお酒をのんだからといって浴衣が乱れたことは記憶にない。

自分ルールの多い祖父なので晩酌の飲むものも決まっていた。自分の横にお盆にのせたお酒をおいて作りながら飲んでいた。焼酎に真緑のライム液をいれて水で割った「ライムハイ」だった。日本酒も飲むけれど普段はこれだった。たまにわたしにコップを持っておいでといってそれを渡すとライム液を水でうすめたものをつくってくれて乾杯した。わたしがお酒が好きなのもこの晩酌ごっこの記憶からなのかもしれない。おつまみも分けてくれた。焼酎の銘柄はおぼえていないけれど祖父からはいつもその匂いがした。

お酒が入って機嫌が良くなるとなぜかサンタルチアを歌った。食卓を叩いて拍子をとってサビでは手を振りあげて歌いきった。生真面目な祖父の微笑ましい一面。祖母はまたかという顔だったが家族で囲む食卓はいつも賑やかだった。

いつだったか祖父がだいぶ歳をいってから、いつものように飲んでいて、ふと何かを決意したように「今日は立って歌うぞ。」と言い出した。そして立っていつものように歌い、途中少しかすれ声になりつつも歌い終わると静かに座り何事もなかったようにまた晩酌をつづけた。ご飯が終わるとなぜだかわたしは何とも言えない気持ちになって、後片付けをする母のところへいって「ねぇ、よく人って死ぬ前にいつもと違うことするっていうよね。」と言った。母は「そうねぇ。そういうねぇ。」と何ということもない感じで答えたのでわたしはとても不安になって「おじいちゃんは死んじゃうの?」と聞いたそばから涙がこぼれて、母を驚かせた。母は「大丈夫よ。どこも悪くないんだから。」と笑いながらいってくれたが、それからしばらく祖父の様子が気になって仕方なかった。その後祖父は、というと、とくに病気もなくいつもと変わらず自分のルールでマイペースに毎日を過した。

寒がりな祖父だったが、さすがに夏はお風呂からあがると浴衣の肩を脱いで下着になり両手に団扇をもって前と後ろから器用に扇いで窓際で涼んでいた。今のように命を守る行動を、とも言われない頃だったがクーラーも扇風機さえも風を嫌がってついていない、電気もつけていない夕方のオレンジ色の部屋でリズムよく団扇で扇ぐパタパタという音をさせていた。

冬になるとずっしりおもたい掻巻(かいまき)をかけて寝ていた。掻巻とは着物に綿がつめてある掛け布団。首から肩をおおうので暖かいのだそうだ。あの掻巻布団はいつ家からなくなったのだろう。寒がりなくせに布団を干すと暑くて寝られないといってあまり外には干していない掻巻布団は布団をひくのを手伝うとものすごく重くて、よくこんな重いものをかけて寝られるなぁと思っていた。それだけでなく、ねまきも下着を何枚も重ねて浴衣も重ねて長着までも着たまま布団に入った。父が面白がって数えたら全部で7枚も着ていた。とにかくすべてが自分流な祖父だった。今でも布団の入った押し入れをあけるとその祖父の掻巻の匂いがしてくるような気がする。

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