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祖父が帰らなかった夜

幼い頃の記憶は曖昧で断片的だ。すこしかすれていてとおいもの。だけれどもはっきりと突然に思い出すこともある。わたしの中にひっそりとつもっているさまざまなことがら。

祖父はとても真面目で家族の誰よりも几帳面で、朝、顔を洗ったタオルをそのまま自分で洗い、四隅をきっちりと整えて干すような人。その背中は少し猫背だった。

その朝、いつもの祖父の姿はなかった。祖母と母が大きな騒ぎにしてはいけないけれど、どうしたんだろう、どうしようと顔を突合せていると電話が鳴った。だれがその電話をうけたのかはおぼえていないが祖父のことで電話がなったのだということは声の感じでわかったようにおもう。

その電話のあと、母が教えてくれた。

「おじいちゃん他所様の駐車場で寝ちゃっていたんだって。」

祖母があわてて支度をしてでていった。しばらくして祖母に連れられて帰ってきた祖父はまだ酔っているようだった。小学生だったわたしは学校へ行くのに朝ごはんをたべたりしていたのだとおもう。ちらっとみた祖父はいつもの祖父ではなく薄汚れてみえて今までみたことないような知らない祖父の姿だった。ただ祖父が帰ってきて強ばっていた家の中の空気がほどけたその感じはよく思い出せる。誰も祖父に何をしていたんだと強く言ったり責めたりせず、怪我なくてよかった。寒くない時期でよかった。無事でよかった。と気遣うばかりだった。

その後、少し大きくなってから母に「おじいちゃん帰ってこないでよそんちで寝てたことあったよね。」と聞いたら「あったね。仕方ないよ。あんなことがあったから。おじいちゃんにまでなにかあったらって本当に心配したよ。」と小さな声で言った。その帰らぬ夜の少し前に、祖父の弟が不慮の事故で亡くなった。傷害事件といわれるような悲しいことだった。

あの静かで温厚な祖父が正体を無くすほどのむというその悲しみは祖父だけのものでどんなに言葉をつくしてもだれにもわからないのだと思う。その時のことを以後、家族の誰も何も言わなかった、家族はただそこにいることしかできない。でもその、ただいるだけということがとても大きなことだとわたしが知るのはずっとずっとあとのことだ。

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