秋分のプラットフォームにて。

文庫本にはスピンがない。図書館から借りる単行本に慣れているせいで、そのことに気づく。適当な栞をいつも所持しているほど意識は高い読書家でもない。スーツのズボンのポケットに無造作に入れたレシートを挟んだ。意外と使い捨ての方が、無くなったときに焦らなくて済むので、意外と私には合っているのかもしれない。見映えはしないが。
誰もいないプラットフォーム。
夏には斜陽が刺すような時間帯でも、今はとっぷりと闇に囲まれて、涼しい秋風が肌を撫ぜ、髪を揺らす。疲れを癒すのは、その時々で違う。歌や音楽だったり、景色だったり、人との会話やLINE、イラストや写真、大好きな紅茶。
疲れを癒すのが、イコール「文字」や「読書」という自覚はない。けれど、文字を追っている間の、静かな心もちになれることや、無心になれるのはとてもいい。頭を空っぽにして、物語の水辺に素足を浸すような気持ちになれるのだ。音が妨げになる場合もあるが、BGMがかかっていると、尚良いと思う。
異空間、別世界、自分だけの特別な場所。一人でも、孤独ではない。ラジオに耳を傾けるように、ボサノバやジャスが流れる喫茶店に佇むように、帰り道に月と星を見上げてついつい眺めるように、何かの気配に静かに心を傾け、時間の推移に無意識に同調し、流れに任せて寄り添っている。ひとりなのに、独りではない。そう確証のない確信ができる瞬間でもある。
時間を気にしすぎて、切迫される日常に於いて、精神を楽にしてくれることや物を自分の中に有しているとき、おそらく人というものは心穏やかになれる時間を確かにその心の掌や肉体に内包することができるのではないだろうか。睡眠を貪り、人と気の済むまで会話し、読書に耽り、料理を嗜む。
心配や不安がない世界というのは、なんて心地が良いのだろう。
安心は、何故こうも長く続かないのか。
そんなことをふと考える時もある。
その身に安心を持てるひとほど、もしかしたら、この世に永く幸せにいきていけるのだろうかと、思う。
外出は決して嫌いではないが、どうもこのところインドアになりがちだ。世間的な制約の影響も確かにあるけれど、その中で柔軟に方法を考えていかなければいけなかっただろう、どの人も。
そんな最中で徐に手にした読書という手段により、一年以上経った現在も、心の中で旅行している。
物語の冒険に、表現と言葉の海を泳いでいる。
表情豊かなキャラクタ、個性豊かな作者。その人の数だけ人生がある。短くも長い歴史がある。リアルでは会えない人に会い、言葉を交わしている。それがたとえ、仮初であっても、お互いに一方通行であってもきっと、心のやりとりの中に確かに自分の存在を確かめられる。言葉や気持ちに共感する。斬新で新鮮なストーリーに出会う。文字を追いかける。追いかける。追いかける。発見が、楽しいのだ。
きっと、そんな時間が私は好きなのだろう。ずっとでなかったとしても、少なくとも『今』の私は、そうなのだろう。誰に理解されなくても、誰からも共感を得られなくても、私はそんな私をいとしいと思える。
ゆったりでも、わくわくと気持ちが持ち上がる。穏やかな気持ちで景色を見つめながら、日々の流れを懸命に泳いでいる日常の合間に、その小旅行や出会いを楽しむ。それが、楽しい。
良い本でない時もある。でもだから、良い本にたくさん出会いたい! よい言葉、その言葉に影響を受けて変化するよい精神は、きっと私の人生を励ましてくれるだろう。きっと。きっと。
そうであったらいいと願う今日。
夜は特に涼しくなって、夏より断然、読書がしやすくなった。時間がなくて思うように文字を追いかけられないストレスの解消に、帰りの人気のないプラットフォームのベンチに座って、ついつい本を開いてしまう今日。秋分の季節折。
時々、貨物列車が巻き起こす突風が、さらさらと髪を揺らして、肌を通して心の奥に心地よいほど涼しく、夏に浴びるスプラッシュとは違う、秋風の爽やかさに心が安らぐ。秋がしみじみと嬉しい、読書ができる喜びと快さに目を細めている。ありがたい、ありがたい生活の隙間のありがたい余裕だ。何もかも窮屈で苦しくてあらゆることが辛かった時期があるから、その心の余白が私はうれしい。がむしゃらに働いている人がいることを理解し、尊敬し、心配しながらも、私は弱い私のために今この生活を生きることで、守ることでせいいっぱいでいる。
弱い私。儚くて愚かで時に惨めで、大した才能もなければ、報われるほどの努力もできなかったししてこれなかった。そのことに対する後悔を、私はずっと抱えて生きていくのは辛くて悲しいけれど、絶望はしたくないとがんばっている。私なりに。
弱い私だ。だけど、こんな人間が世界に一人くらい、いてもいいではないか。そう思ってから、数年が経つ。
いつでも、どこでも、それに気づけたときなら何にでも、物語は始まっている。そんな風に思える時もある。
上の記録を書いた帰り道に踏み出した、最寄り駅のスロープを黒い仕事用のパンプスで踏み出しながら考えていた。「物語」というのは、「創作」ということだ。私は夢を見るのが好きだ。報われないことが多すぎる現実だから、夢を見てしまう。それは虚しいと言われるかもしれないけれど、長年培ってきた私なりの処世術でもあるのだから、どうかそんなことは言わないでほしい。現実逃避と言われるかもしれないけれど、その夢がちっぽけな私の心の避難所で、時に光で、救済でもあった。明治が最盛期だったと教えられた小説が今も尚消えずに、人々の心に感動させることができる作品が生み出されているのは、漫画やアニメやドラマや映画が未だに絶えずにいるのは、そういう一時的にでも夢や希望を見たい人が私以外にもいたいからだろうと思う。心の中で、自分の生活の中に光るものを求めているのではないかと思う。スポーツや旅行や学問や仕事や、そういう何かを現実にもたらすものだけが「夢」ではないのじゃないかな、と思ったりしている。そんな「夢」の形も、多少は必要ではないかと思ったりしている今日の私なのである。
生活と読書と、ほんの少しの創作を綴る秋。

2021/09/22 プラットフォームにて
(2021/09/26 追記)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?