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シロツメクサ |3|

次の朝リンはいつも通り家を出た。

制服を着て、ママが作ったお弁当を鞄の底に押し込んだ。平日の水曜日。7時26分のバスに乗った。区役所の停留所でリュックに手書きの札をいっぱいぶら下げた男が乗ってきた。彼はニタニタして吊革にぶら下がったりしながら、自分の居場所を探していた。時々何か言う。彼にしかわからない言葉。誰ひとり視線を合わせる者はいない。誰もがこの時が早く過ぎるのを祈っているようにしか見えない。

終点の駅前に着いた。
リンは何も考えずに改札をくぐる。
都心方面へ向かう電車のホームできっちりと4列になって整列している人々の後ろに並んだ。

黄色いラインの電車が滑り込んできた。

前へ前へぎゅっと押される。きっちり整列している列がよりタイトになる。

扉が開いた。

リンの足は動かない。コンクリートにひざ下まで埋まって抜け出せなくなったみたいだった。

後ろから何人かがリンの肩やカバンににぶつかって、舌打ちしたりしながら電車に乗り込んでいった。

リンは階段を降り、今度は別の階段をのぼった。すぐに電車が入ってきた。千葉方面へ向かう各駅停車。

リンは乗り込んだ車両の一番先頭の3人掛けの席に座った。窓の外が見える。並行する電線が黒く波打っていた。

〈今日は学校休んでもいい?〉
リンがラインをすると、すぐに母から着信があった。
だがリンは出ない。
〈休みたいの?学校にはなんて言えばいいの?〉と母。
〈体調が悪いって言っておいて〉とリンが返す。
〈しょうがないわね〉
〈ごめんなさい〉
〈今どこなの?〉と聞かれ〈まだ電車の中〉とリンは答えた。

リンがこうして学校を休むのは、初めてではなかった。家出なんて大それたことをするほどの勇気も無ければ、どこにどうやってどんな気持ちをぶつければいいのかも分からなかった。だけど、時々こうして行くべきところに行かないのは、ただ自由を確認するためだった。

黒く波打つ電線はいつの間にかなくなっていて。透き通るような青い空と、見慣れない色のフェンスが

車内の人の数は増えたり減ったりしながらも、一駅ごとに着実に減りはじめていた。見知らぬ駅でドアが開くたびにリンは、ここで降りるべきかどうか葛藤した。
-まだ降りない-
-ここじゃない-
またドアが閉まる。窓の景色が動き出す。
-どうせ自分の意思で選びとっているものなんてこの瞬間くらいなんだ。だからもっと遠くまで、まだ行ったことのない、違う景色の、そうだな、夢の中とか意識の果て、そんなとこまで行けたらいい-

だけどそれほど長くはその葛藤と闘い続けることは出来なかった。リンは突然飛び降りた。開いたドアが閉まる直前に電車から駆け下りた。ちょうど電車で居眠りしていた人が、目覚めた瞬間ここが降りるべき駅だと気が付き駆け下りるようなタイミングで。

そこは初めて聞く川の名前がついた駅だった。

ホームに降りたほんの数人の乗客たちの流れに合わせて、階段を登り改札を出た。

改札を出てもどうしたら良いか分からない。周りの風景がまともに目に入ってこない。唯一どこにでもある見慣れた看板のコンビニを見つけたから、リンはとりあえずそこへ向かうことにした。

もう学校では授業が始まっている時間だ。リンは時計を見上げた。そしてミルクティーと、期間限定味のチョコレートを手に取りレジへ向かった。コンビニを出る。右手には商店街。道の入り口にアーチ状の看板がかかっていてビー玉みたいな目をしたキリンやパンダが商店街の名前が刻まれた丸いプレートを抱えていた。リンは商店街とは反対側の線路沿いの道を歩いてゆくことにした。

少し歩くとすぐに何車線もある大きな国道に突き当たった。国道に沿って歩くと何台もの車やトラックとすれ違う。歩いている自分からはドライバーの顔なんてはっきりと見ることは出来ないのに車の中からはきっと自分の姿がはっきりと見えているのだろうな。そう思うと居心地が悪かった。

しばらくすると歩道橋が見えてきた。今まさにペンキを塗り終えたかのような真っ青な歩道橋だった。段差の一律でない階段を2段抜かしで登り切ったリンは歩道橋の真ん中から辺りを見下ろした。下では無数のドライバーがひっきりなしに行き交っているのに、何だかここにいるのは自分だけの様な気がした。

リンはとにかく前に進むことにした。あまりにも人通りの少ない通りは避けながらも、とにかく大切なのは進むことだった。

街路樹のある静かな通りを抜け、細い用水路か人工河川沿いの遊歩道に差し掛かった時に、雨が降りはじめた。リンは鞄の中に入れっぱなしにしていた折りたたみ傘を取り出そうとして、携帯が鳴っているのに気が付いた。電話は兄からだった。
見ると何度も着信があったらしい。
「はい」
「リン?学校休んだの?大丈夫?」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「今どこ?」
「まだ家に帰る途中だよ」
「じゃあすぐ帰って来るんだ?」
兄はほっとした声で言った。リンが答えるより先に「ちょっと買ってきてほしいものがあるんだけど」と言って矢継ぎ早に食べ物や漫画雑誌の買い物を言いつけた。兄の長い買い物リストを遮って「それラインで送っておいて」とだけ言い、リンは電源をオフにした。

#小説 #自由 #逃げる #生存 #居場所 #シロツメクサ

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