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#45 食い尽くされた私

先日読んだ本がとても私に合っていたので、感じたことを話してみようと思います。

こういった解説書は、書き手がどれだけ自分の感覚と似ているかで、自分にとって合うか合わないかが変わってくるのかなと感じています。

著者の加藤諦三さんと私は、おそらく幼少期の環境が似ているのかなと思います。恩着せがましい父親に常に緊張している自分。これは私そのものでした。

愛着の問題が語られるとき、母親がベースになっていることが多いように思いますが、私はそこにあまりぴんときていません。もちろん母親にも問題点が多かったのは間違いではありませんが、父親もまた多大な影響を及ぼしていると感じているのです。

この本には、「幼児性」つまり「甘えの欲求」がキーとなって書かれています。幼児性を強く残している大人は、人間の本能である甘えの欲求が満たされておらず、人に対して依存してしまう。

私の父親はまさにこの本に書かれている通り、「愛」「正義」「道徳」の仮面を被って甘えの欲求を満たそうとしていました。「せっかくやってやったのに」と恩着せがましく言いながら、実際には自分の思いを満たしたいだけ。

過去に「アットホーム・ダッド」というドラマがありました。久々に観てみると、主人公は「幼児性を強く残した父親」そのもの。「家族愛」の感動物語のように仕立て上げられているけれど、実際には過酷な家庭環境を美化しているだけのような気がします。そもそもこういう家庭が多かったんでしょうね。

自身の思いが最優先。「お前のため」と言いながらも、実際には子ども(または妻)本人の意思なんかこれっぽっちも見ていなくて、父親自身がやりたいだけ。それを拒否されようものなら、途端に機嫌を損ね怒り出す。

こうして家族から、甘えの欲求を食い尽くしていく。

私は、食い尽くされたんです。

私自身の感情はよしとされず、「こう感じなさい」と植え付けられた。怖いのに怖がってはいけない。嫌いなのに好かなければいけない。興味がないのに楽しいと感じなければいけない。父親自身の欲求のために。

最後に会ったとき、父親は「夕陽がきれいに見えるあの公園に連れていきたい」と言っていました。私は出かけたくなかった。家族で出かければ、かならず両親は言い合いになるし、冗談の範囲で済むとしても声を荒げるから。景色を見て、「きれいだ」と感動しなければ、感動して声を上げなければ、また父親は不機嫌になるから。

私は誰かと行動をともにするとき、今でも自分の反応が間違っていないか気になって仕方がありません。楽しんでないと思われたら、不機嫌になって私はまた怒られてしまう。突き放されてしまう。未だに。無意識に。

そうやって生きてきたから、今、自分の感情がよくわからないし、人と関わろうというエネルギーも、両親が気に入る自分を続けるエネルギーもありません。

だから両親と距離をとった。これ以上頑張ることは、もうできない。食い尽くされてしまったから。もう差し出せるものは残っていないんです。

暴力や虐待、離婚など、目に見える問題がなくたって、なんなら周りからは「いい家族」と言われる家庭にこそ、どうしようもない複雑な問題があるものです。


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