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現代の天皇に関する古くて新しい考察。「徳」がもたらすもの

きょう、天皇陛下が退位され、平成という時代が幕を下ろします。
午後5時から「退位礼正殿の儀」という退位の儀式が行われ、日付が変わって5月1日(水)になるのと同時に皇太子さまが新たな天皇として即位されます。元号は令和へとかわるわけです。

最近、天皇陛下は「行事続き」でした。伊勢神宮や神武天皇陵、昭和天皇が埋葬されている「武蔵野陵」に参拝するなど、スケジュールが目白押しという印象です。

中でも今月18日に伊勢神宮に参拝した際は、多くの人が両陛下の姿を見ようと神宮近くの沿道に押しかけたことがニュースになりました。天皇陛下の人気ぶりが改めて分かるエピソードでした。

最近の動きを見ていると、これがまさに平成という時代にできあがった
「皇室像」なのだなと思います。
その核心は「伝統の継承」と「大衆的な人気」です。

一連の行事は日本古来の伝統と天皇がつながっていることを、そして天皇のもとに駆けつける人々の存在はアイドルに勝るとも劣らぬ「人気」を印象付けています。

こんなことを考えたきっかけは連休中に読んでいた本にありました。去年末、岩波書店から出た『伊丹十三選集 一 日本人よ!』です。
映画監督・俳優・エッセイスト・イラストレーターなど多彩な活躍をした
伊丹十三(1933-1997)のテキストの一部をまとめた本ですが、最初の章が天皇についてのものなのです。

この本がどこまで天皇退位を意識して編まれたのかは分かりません。推測できるのは、伊丹十三のような鋭い感性を持つ人にとって「日本人と天皇」というテーマは避けて通れなかったことです。

「天皇日常」と題された猪熊兼繁京都大学名誉教授へのインタビューをもとにしたテキストには、次のようなことが書かれています
(発言内容は「昭和」を前提にしています)。

結局、日本人は農耕民族なんですワ。つまり、自然を自然のままにしておいて、苗から実が獲れればいいんですが、そこへ風が吹き過ぎたり、日が当らな過ぎたり、また当たり過ぎて、乾いてしもたり、そら地震だ、そら洪水だ、ちゅうような農耕の災害とゆうもんは、人間の力じゃとても克服できないんで、人間を超えた、超人間的な力によって鎮めなきゃならんト、ゆうような社会ですわナ農耕社会とゆうのは。そこに神様がある。と同時に、神様と同じような人間を持ってきて、それに全部おまつり任せちまわんと生活できませんワ。それが天皇なんです。

ここでは天皇が実質的な「権力」を持たず、不安定な社会をまとめるための「権威」として機能しているという見解があります。この流れに、最近の天皇陛下の「行事への参加」はピタリと当てはまります。

その一方、神様のように完全に超越した存在となっては現代では支持を得られません。積極的に大衆の中に入り、直に言葉を交わす機会を作っていくという姿勢が天皇陛下にはありました。

被災地で「ひざまずいて被災者と言葉を交わす」という態度は昭和天皇のときにはあり得ないものでした。この「親しみやすさ」と美智子さまのスター性が熱狂的な支持を生んでいることは間違いないでしょう。

さて、「代替わり」を受けて新天皇のあり方はどうなるのでしょう?
「伝統の継承」という役割は続けるとして、「大衆的な人気」を維持できるのでしょうか。

カギは現在の天皇陛下が積み重ねられてきたのと同様に何らかの形で「大衆の中に入る」機会を持つことではないでしょうか。その際、「社会を見ている」というセンスが問われるかもしれません。

格差が拡大している中で、貧困家庭を支援しているような動きに目を配ったり、育児に追われる働く母親を励ましたり・・・

私の想像力は限られているので大した提言はできません。「象徴」という役割の中で、どこまでなら「政治性」を問われないかという難しい線引きもあるでしょう。

しかし、現在の天皇陛下が被災地を訪れ、「あなたたちを見捨てていない」というメッセージを送ったり、戦地で祈りを捧げて「戦前」と「戦後」をつないだことには大きな意味がありました。
大衆的な支持を得るには、実はこうした「徳」のある行動が何より重要なのではないでしょうか。

話が長くなりました。

今回は「徳」を感じさせるジャズマンの演奏を聴いてみましょう。
バリー・ハリス(p)の「ライブ・イン・トーキョー」です。

バリー・ハリスは現在89歳(!)の大ベテラン。マイルス・デイヴィス、ソニー・スティット、サド・ジョーンズ、デクスター・ゴードンなど共演した大物は数知れません。本作を聴いてもバド・パウエルやアート・テイタムの伝統を受け継ぎながら独自の渋いスタイルを発展させているのが分かります。

ハリスのすごいところは音楽活動だけでなく、後進の教育に人生を捧げていることです。1982年、NYに「ジャズ・カルチャー・シアター」を独力で開設し、伝統的なジャズを指導しています。一方的に教えるだけではなく、セッションをしながら指導するスタイルで、外国でも同様のワークショップを持っています。オランダやイタリア、スペインや日本でも指導が行われてきました。

このライブはザナドゥというレーベルを率いていたドン・シュリッテンが企画、1976年に開催されました。フュージョン・ブームが席巻していた時代に、ストレート・アヘッドなジャズが日本で大歓迎され、ハリスも感銘を受けたそうです。そのせいか演奏内容も充実しています。

1976年4月12日と14日、東京でのライブ録音。

Barry Harris(p) Sam Jones(b) Leroy Williams(ds)

③Tea For Two ハリスの円熟味と溌剌さが組み合わさった演奏です。冒頭はピアノのみで、メロディを引用しながら優雅に歌いあげます。と、一転してトリオでアップテンポとなります。この「つなぎ目」が分からないスムーズな変化が素晴らしい。ハリスのピアノ・ソロは非常にスイングして音数も多いのですが、慌てている感じはなく、むしろちょっとスローに聴こえます。テイタムの影響を受けている「落ち着いていながら強烈にスイングする」ピアノがビ・バップの「正統派」を感じさせます。

⑤I'll Remember April メロディの解釈が素晴らしい。やはりピアノのみのイントロなのですが、ラテンすら感じさせる楽しげなイントロからメロディに移るアレンジが見事で客席から思わず拍手がわいています。ピアノ・ソロではメロディの楽しげな感じからはややブルージーなムードに寄せた渋いフレーズが続きます。淡々としながら、フレーズの最後は思わぬところに連れて行き、独特のグルーブを生み出す演奏。バド・パウエルの華やかさとも異なる、ハリスの滋味あふれる世界が存分に出ており、こんなところにも彼のジャズへの愛情深さを感じます。リロイ・ウィリアムズとのソロ交換ではお互いの演奏をよく理解した上での「溜め」が非常によくきいていて好感が持てます。

ハリスの「徳」を感じる演奏を聴いていると、やはりジャズへの深い愛情が成せるものなんだなあと感じます。
愛情を持ち、理解しようという態度があれば、その場を共有するものたちも次第に「徳」に巻き込まれていくというか・・・。

新天皇になる皇太子さまはことし2月にこんなことを述べられています。

皇室の在り方に関しては、国民と心を共にし、苦楽を共にする皇室ということが基本であり、これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。過去の天皇が歩んでこられた道と、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致し、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けることが大切であるとの考えは今も変わっておりません。

同時に、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。私も過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。

この無駄のない発言、本音だろうと思います。

自らのスタイルを模索しながら、国民の支持を得る努力を続けることになる新天皇。しばらくは静かに様子を見てあげたいものです。

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