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円形劇場の棚田でモモと遊ぶ

今年からまた棚田が増えた。
これで1町歩くらいだろうか、棚田は全部で何枚になっただろうか?

ある朝のこと、家の前に○さんが突然立っていた。
「あの奥の田んぼをやってくれないか。俺ももう80になり、体力の限界だよ。」
「僕もこれ以上棚田が増えるのは限界ですよ。」と笑って、やわらかく断った。
しかし、後日また家の前に立っていた!
「やっぱり、やってくんねえか。」

誰のものでもない

以前、僕は○さんから嫌がらせを受けたことがある。
共同購入した里山を森のようちえんのフィールドにするため(今、集落には福岡家のタラちゃんしか子供はいないけど、将来は子供たちの笑い声が響くビジョンを僕は持っている)、尾根道を学生たちと掃除していた。

共同購入した里山には数名の地主がおり、尾根道を堺にいくつか別れていたが、境界線となる尾根道は共有地と聞いていたので僕らは歩いていた。

しかし、○さんは尾根道は俺の土地だから歩いてはダメだと言って、尾根道沿いの木をたくさん切り倒して通せんぼしてきた。

「ただ子供たちと散歩するだけなので、通っていいですか。」

と聞いてみたが、子供たちと歩くことすら認めてくれなかった。
高齢者の○さんが何十本もの木を伐採してまで、普段はまったく使っていない里山の尾根道を歩けなくする執着のエネルギーと所有の概念にショックを受けた。

長老に相談するとやはり○さんの主張はおかしく、尾根道は共有地で誰でも歩いて良いそうだ。
農村で移住者が今までなかった新しい活動をすると、とても応援してくれる人もいるが、時には信じられない嫌がらせを受けたり、足を引っ張られたり、妨害されることもある。

個人でも国家でも、人類はこの所有の概念で争い続け、殺し合いまでしている、今も。

500年前にアメリカ大陸へ来たヨーロッパ人は、先住民にこの土地を売ってくれと言ったが、先住民はこう答えた。
大地は誰のものでもなく、未来の子供たちから借りているので大切に管理して未来の子供たちへ返すものだと伝えたが、理解されず殺されて奪われてしまった。

本来、地球は誰のものでもない。
だから、僕らは一般社団法人小さな地球で里山を共同購入してコモンズ(共有財産)とし、大地を個人の所有から解放する社会実験を行った。

戦わない

僕は腹を立てることがあったり、嫌なことをされたり、壁にぶつかったり、問題が起きたとき、それを乗り越えるために実践していることがある。

「怒らず、抵抗せず、戦わず」
「受け入れ、許し、手放す」
「深く呼吸し、心を平和に、今ここに集中する」

23年間も農村に暮らしていると、理不尽なこともあるし、思うように行かないこともあるし、自分の力ではどうにもならないこともあるし、本当に色々なことがある。

でも、へこんだ時こそこれを実践すると、その問題はいつの間にか消えてなくなっている。
魔法のように。

逆に「怒って、抵抗し、戦い」、「受け入れず、許さず、執着する」と、「呼吸が浅くなり、心が乱れ、暮らしがおろそかになる」、そしてエネルギーが消耗し、関係は悪くなる一方で、抵抗すればするほど疲れるだけだ。

水のように

僕は○さんに「わかりました」と言って、尾根道を歩くのをやめた。

川を流れる水のように、時には岩にぶつかり、時には嵐が来ても、どんなに曲がりくねって蛇行しても、いつかは海へ流れつき、やがて雲となって雨を降らせ、大地を潤し、緑を生い茂らせ、生き物たちに恵みを与え、ふたたび川となるように、水は始まりも終わりもない生命の循環を永遠に続けている。

その○さんが、僕に田んぼを頼んできた。

戦うことなく、受け入れ、許し、手放し、深呼吸し、心を平和に、ただ今ここにある暮らしをコツコツと営んでいるだけで、何の力も加えることなく、ある日突然に新しい流れが生まれていく。
それが自然のことわり。

自然界から学んだ「関係性の法則」は、善悪、上下、左右、強弱を超えた別次元へ連れて行ってくれ、大きな生命の輪へ合流させてくれる。

ただ美しいから

僕の体はひとつなので、これ以上手間のかかる天水棚田を増やすのはクレイジーなことなのは充分知っている。
でもこの天水棚田はアジア・ヨーロッパを放浪していた頃に見た古代ギリシャの円形劇場を彷彿とさせ、また10年以上前だが虐待された子供たちの受け入れをしていた時に子供たちと歩いた散歩コースであり、移住した当初から大好きな風景だった。

考えたすえ、僕は円形劇場の棚田を引き受けることにした。

なぜ僕は金にもならない、苦労も多い、生まれ故郷でもない土地の棚田を次々と引き受けるのだろうか、自分でも不思議に思うことがある。

里山保全のため?
共生社会のため?
循環する暮らしのため?
持続可能で平和な地球のため?
子供たちの未来のため?

結果的にはそうかもしれない。

でも、本当は自分のため。

ただ美しいから。
円形劇場の棚田で出会う四季折々の音と光と匂いと風と熱を感じたいから。
いのちの彫刻をつくりたいから。

春の天水棚田(今年増えた棚田はここではありません)

円形劇場というとミヒャエル・エンデの「モモ」を思い出す。
この棚田には「時間どろぼう」が決して盗むことができない豊かさがある。

円形劇場の棚田で「モモ」と遊ぼう、みんなで。
地球はみんなのものだから。


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