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デジタル化は、たぶん人をダメにする(3)【デジタル的二項対立は進化した思考か】

デジタル化によって、人はダメになっていくのではないか。
私はそのような危機感を持つようになっています。

その危機感は何よりも自分自身の劣化を実感するから切実でもあります。少なくとも、デジタル化によって自身が進化しているとは思えません。

そんな観点から、記事を書いています。前回はこちら。

今回は、デジタル時代に復活したと感じるある言葉です。

それは、「アンチ」という言葉です。

アンチとは、「反対」「対抗」などを表す接頭辞ですが、私の中では、古い言葉という理解です。

使い方は、何といっても「アンチ巨人」ですね。

私の小中学生のころは、プロ野球といえば、ジャイアンツ、巨人の時代。今となっては、ありえない地上波での全国放送も世間がみんな巨人ファンだったからこそビジネスとして成立していました。

ただ、私の父は、西鉄ライオンズ時代からの筋金入りのライオンズファンで、所沢に移転しようが、九州にホークスがやってこようが、プロ野球はライオンズ一択でした。
対照的に長嶋茂雄全盛期に青春を過ごした叔父は大の巨人ファン。なので、いとこも大の巨人ファンで、月刊ジャイアンツが愛読書だった程です。

なので家庭環境はそれなりに影響はあるのでしょう。私はジャイアンツに対して何の思い入れもありません。

そんな感じでいると、「アンチ巨人?」とよく聞かれたものです。

私自身は、そうではないのですが、世の中的に、巨人ファンかアンチ巨人しかいないと認識している人も結構いたのでしょう。

今となって思うと、「アンチ」という思考は、二項対立の構造があるのだと思います。ゼロかイチかのどちらか。つまり、デジタル的。

その意味で、デジタル時代にこの「アンチ」という言葉が蘇ったのは、時代の要請なのだろうと思います。

個人的には、「アンチ」の言葉を復活させた功労者(?)は作家の百田尚樹さんではないかなと理解しています。

私が巨人ファンでも、アンチ巨人でもなかったこともあり、この「アンチ」的な思考は、奇怪な印象が強いです。

すべての現実をこのような二項対立、つまりデジタル的な思考で、説明することに無理があると思うからです。

福島原発事故の「処理水」における堀江貴文さんの動画も、内容以上に、賛成か反対かで完全に二項対立になっている思考への違和感が強いです。

賛成か反対かにそんなに意味があるとは思えません。

どちらの立場であってよい。

その立場から、問題の本質にフォーカスし、双方の言い分や主張から現実的な解を求めていくことが大事であると思うこともあり、このような思考はどうなんだろうかと思ってしまいます。

そもそも、主張の片方のみが正しく、対立する主張が誤りであるというのは、現実にどの程度あるのでしょう。

私はほとんどないと確信しています。

そのような思考で現実社会へアプローチをして、誰もが一定のコンセンサスを得る思考に到達することは、極めて難しくなる。

自分の主張が正しい、対立する主張は間違いだとなれば、アウフヘーベンなど望むべくもない。双方に一定の理があり、対立する主張であっても、傾聴するに値する点がある。それを考えることなしに思考の成長はありえないと私は思います。

そのこともあり、皮肉なことではありますが、デジタル時代において、デジタル的な思考は、進化した思考とは思えません。

もちろんデジタルの思考にも良い点はあるので、それはそれ、これはこれと峻別する力が今の時代には必要なのではないかなとも思っています。

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