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【エッセイ】明治国道でたどる東海道 25 #1 日坂 奇跡の区間をもたらした或る有料道路

金谷と日坂の間にある小夜の中山は東海道の難所として知られる.東海道をはじめとする街道は,近代化の流れにおいてその原型が失われていったが,古代・中世の原型をとどめる東海道の奇跡の区間となっている.

それは明治になって新たにできた「或る道」の存在がある.

小夜の中山を越える初夏

東海道の三大難所は,箱根峠,鈴鹿峠,そして3つ目が小夜の中山ということを後に知る.その呼称には小夜の中山峠と「峠」を含めることもあるが,多くの場合には「峠」を含めずに語られる.峠という意識を持たずこの道を歩んだため,それが小夜の中山を強烈な印象を記憶に焼き付けることになった.

訪れたのは八十八夜の新茶の頃をやや過ぎた初夏の時期.一番茶は既に摘採され,一部の茶木は枝が剥き出しになっていたが,控える二番茶,三番茶は開葉し鮮やかな新緑に包まれていた.

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明治国道2号(小夜の中山の区間)

小夜の中山は箱根のように鬱蒼とした木立に囲まれているわけではない.牧之原台地に茶畑が一面に広がる光景は「丘」.人が国土に働きかけ,開墾してつくった造成地だ.

風景論からみれば,本来もつ自然を破壊をしたことになろうが,人間主体として見た場合,不毛だった土地を豊穣化させ,土地の恵みを最大限に享受することを可能とした例ともなろう.

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幕藩体制の終焉によって武士の時代は終わり,国家中枢から退くことになった徳川家のお膝元の静岡では大量の家臣がその職を追われた.

刀から鍬へ.そのような職種の配置転換が必要となった.真の意味でのリストラクチャーである.

維新のリストラクチャーは武士のみにとどまるものではなかった.明治3(1870)年,大井川の渡船業が政府によって許可される.それまで川筋の特権であった川越し制度は廃止になり,渡渉の役を担っていた約1,000人とも言われる川越人足は一夜にして職を失うことになった.

支配層の武士と被支配層の川越人足らのその失業対策も含めて行なわれた事業が「牧之原開墾」のプロジェクトだ.樹木を伐り,根を掘り起こし,痩せた土地に茶木を定着させ,それを輸出産業に育てるまでには並大抵のことではなかったという.

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その「丘」という地形に錯覚をおぼえるがゆえに,眼前,先が見通せることが心理的に苦しみを増す.

歩き慣れて健脚になったはずの大腿筋もにわかにこわばり,呼吸が乱れる.一歩一歩の足取りが重力に逆らうと感じられるほど遅々として前に進まない.

心拍も息もあがったところで峠の茶屋ともなっている扇屋に着いた.

「今年の新茶,一服いかがですか」

幾多の旅人たちを迎え入れた店主は,タイミングと間合いを十分に心得ている.ここで断る旅人はよほどの理由がない限り,その饗しに肖る(あやかる)であろう.

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小夜の中山の峠の茶屋:扇屋

感謝の言葉を述べて,熱くもなく温くもない新茶を喉に流し込む.潤った舌に澄み切った新茶独特の苦味が広がると,乱れた呼吸も整えられ落ち着いてくる.

「小夜の中山の新茶は65℃で点てますと,味も香りも引き立つのですよ」

決してお茶を買うことは勧められていない.だが,迷わず新茶の一袋を手にして手土産に包んでもらった.

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この小夜の中山の道筋は古代・中世・近代と殆ど変化していないと言われている.そのような「丘」を越える道が,ほぼ原型で残されいる.

それは明治になって新たにできた「或る道」の存在がある.

東海道をはじめとする街道は,近代化の流れにおいて,特に戦後の高度成長期にその道は拡幅され,または宅地化され,その原型が破壊されていった.

小夜の中山が古代・中世の原型をとどめるのは,まさに東海道の奇跡の区間といってもよい.

中山新道:有料道路であった道

明治13年5月,小夜の中山をバイパスする「中山新道」が開通する.この道は,金谷宿の実業家・杉本権蔵による自己資本で築かれ,投下した資本を回収するため,道銭を徴収したことから現在でいう有料道路となる.

文献によっては「日本初」の有料道路と記されている場合がある.ここは留意が必要で,同じ東海道において小田原にも「日本初」を掲げる有料道路の区間が存在する.小田原の区間は当時の現道を「改良」した道を有料化した.

何をもって「日本初」とするか.この手の先手争いは,定義と解釈の棲み分けがなされておらず,その比定の調査は難航する.ただ,少なくとも確かなのは,新規に切り開いた道=「新道」としてはこの中山新道は「日本初」だった.

その中山新道の起点は,金谷宿を京都側へやや過ぎた場所にある.

JR東海道線の金谷駅の裏手,牧の原トンネルに近い不動橋付近の三叉路は,現場に立つとどこにでも見られるような宅地化された一本道であった.かつての有料道路であったのかを察する情景は,そこにはない.

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中山新道の起点と道銭場跡

やや奥まったところに中山新道にまつわる金屋町教育委員会の説明板が建てられてあった.この付近に料金を徴収する「道銭場」があったことが述べられている.物足りなさを感じさせたのは,説明に経路図・俯瞰図などが添えられていないため,中山新道の全貌をとらえることが難しいことだ.

ーーー中山新道はどれほどの規模の道であったのか.

旧版地形図の『掛川』(スタンフォード大学の外邦地図:明治22年測図/大正5年第2回修正/昭和5年鉄道補入)を下地にして現在の地形図と重ねてトレースすると,当時の中山新道の想定される道筋は次のようになる.

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中山新道の経路比定図

金谷宿からの料金所跡の登り口を除けば,中山新道は現在の国道1号の一部となっていて,またかつて国道1号であった県道381号線(島田金谷線)に継承されている.

地形と線形から率直に感じることは,中山新道は山腹をうまく使いながらできるだけ「谷」に沿う理にかなった経路をとっている.対して東海道はあえて「丘」を登っている.

それにより中山新道の距離が東海道よりも短縮されたかといえばそのようなことにはなっていない.交点間の距離は東海道経由であっても中山新道経由であっても,GIS上の計測では約6.1kmの道程となっている.

それであれば,明治時代に対価を払っても人がこの道を利用する動機が働くのは「勾配」の差となるであろう.

その勾配差はどれほどであったのか.標高をプロットした横断面図を描くとその違いが詳らかになる.

参考文献

土木学会中部支部:『国造りの歴史』,名古屋大学出版会,1988
建設省浜松工事事務所:『東海道小夜の中山』,中部建設協会,1995

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