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【エッセイ】明治国道でたどる東海道 25 #2 日坂 小夜の中山のルートの謎

金谷と日坂の間にある小夜の中山は東海道でも難所として知られる.それを回避するためにつくられた明治13年の「中山新道」.その恩恵は距離の短縮ではなく,90mの標高差にあった.中山新道はサービスを開始後,紆余曲折を経て明治38年に国道となり,「明治国道」としていた時間が確かに存在した.中山新道の明治の原型のほとんどは失われているが,夜泣石が祀られているドライブイン・小泉屋の近くに廃道となった”明治”の遺構が距離にして約200mが残されている.

標高差のもたらす対価

地図の楽しみ.それは地図を眺めるだけでなく,実際のデジタルデータを扱う創作的な楽しみがあり,その一つが標高図を描く作業だ.空間的な配置を描くならば3D描画技術がわかりやすいが,シンプルな一次元図(横断面図,縦断面図)は言語化しやすい.

ここでは東海道と中山新道のそれぞれからトラッキングデータ(線データ)を作成.それに国土地理院の数値標高モデルの5mメッシュの数値をのせ,縦断面標高図として「絵だし」した.

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金谷宿から日坂宿までの道程に対してその数値標高を線図化すると,標高の変移は双方の道の経路で歴然とする.金谷宿の分岐点(標高約100m)からの最初の約1kmは標高210m地点まで急勾配が続くことは双方では大差はない.

違いが現れるのはその先となる.

東海道ルートは菊川坂をくだり,菊川の間の宿(標高100m)まで振り出しに戻るように標高を下げる.再び,青木坂では上り斜面となり,中山峠(標高250m)まで突き上げる.青木坂の計算上の勾配は約10%,これが1.5kmほど続く.

峠に至れば,そのあとは日坂宿まで2.5kmをかけて標高差180mをさげてゆくが,日坂側の難所として知られている沓掛坂では蛇行筋を転がる石の如く落ちてゆく.

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小夜の中山の難所:沓掛坂

それに対して中山新道は,菊川(一級河川)を渡る凹地の標高125m地点まで約2kmをかけてなだらかに下がってゆくが,菊川を渡った先から登り詰め,現在の小夜の中山トンネル標高約160mの分水嶺ともなっている無名の峠を越える.

ピークトップだけを比較すればその差は90m.中山新道は東海道よりも劇的にポテンシャルが緩和されている.

かつて行き交う人が道銭として支払った恩恵は,この標高90m分のサービスに対する対価となる.

明治の時間をとどめた旧道

中山新道のこの峠には名前がない.だが,峠の近くには小夜の中山のシンボル的なランドマークともなっていた夜泣石が表記されている.広重の浮世絵の重要なモチーフともなっているかの伝説の石だ.

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中山新道の峠付近の拡大図

かつては東海道の道のど真ん中にあった夜泣石は,明治14年に東京の博覧会に出展するために翻弄され,また運搬の途中で棄てられた悲しい過去をもつ.

その詳細については,ここで述べることはしない.展示のディスプレイ方法や海外であればExhibitionにおいて,見せる側も見る側も一定のリテラシーがなければ,物事の価値観は伝わらなければ,また共有もされないことを示した時代に共通した事例であったと思う.

いずれにせよ,ようやく落ち着いた先は元の東海道筋ではなく,この中山新道となった.

夜泣石はドライブインの小泉屋の敷地奥にある.石のサイズにあわせた東屋の中に丁寧に祀られているが,その姿からは人の身勝手な振る舞いを口封じされた座敷牢かのようにも見えた.

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夜泣石

その中山新道のかつての道は,地図上にも破線で示されるように”存在”する.その場所へは小泉屋から辿るとわかりやすい.

店の前からは京都側に向かって二本の道がある.右手に伸びるのは国道1号の現道,そして左手に折れる道はかつての旧道で,鎖で繋がれた車両侵入禁止の措置がとられている.

その旧道は200mほど進むと,一旦,島田金谷バイパスで寸断されるが,小夜の中山トンネルの側道に登り口があり旧道へつながっている.

その頂きに入ると,風景は一変する.

すでに放棄されてから時間が経ち,路盤は荒れ,倒木が道を塞ぐ.観光名所ともなっていないので,人が踏み込んでいる気配も感じさせない.

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かつての中山新道の道

静寂な空間にしばし佇み見渡すと見えてくることがある.

わずかでも標高を緩めるために数十メートルは掘り下げたであろう切り通しや,路面に目を転じると,路盤の石は適度な粒径で整えられており人工的な敷石.

幅員は3mほどであろうか,対向する歩行者にとっては問題がなさそうだ.だが,明治期になって日本で導入された人力車や馬車であればすれ違いには難儀したのではないか.

それでも,東海道の経路よりかは勾配は緩やかだ.何よりも圧倒的に「楽」なことは,ここに至るまでの呼吸の乱れがないことからも感じ取れる.

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国道1号として生きる中山新道(小夜の中山トンネルから日坂方面)

そのような廃道となった”明治”の残滓は距離にして約200m.昭和5年に現在のトンネルが掘られたことよって辛うじて保全されたことは幸いであった.

トンネルから先の姿は,現代の国道1号として改良された姿に変わる.日坂へと伸びていく景色を見る限り,そこには明治の遺構はない.かつての名残は現在の国道1号のバイパスの上層の狭い空間の中に留められているのみとなりそうだ.

貴重な明治の土木遺構であり,また明治国道の遺産.それだけでも十分に思う.

おわりに:新たな謎

中山新道は,明治13年にサービスを開始後,紆余曲折を経て明治38年に「国道」となり,この中山新道が「明治国道」となった時間が確かに存在した.

その後は改良を重ねつつ,直近では現代の国道1号の島田金谷バイパスが併設され,今でも東西の大動脈の役目を果たしている.

明治から土木技術が進化しても,基本的な線形は同じ経路をたどっている.このことは,中山新道の設計は土木工学的にも理に適っていたことを示していると思う.

ここで一つの疑問が頭に残った.

・どうして,東海道はそのような理にかなう線形ではなく,あえて「丘」を往くのだろうか.

・太古でも,中山新道の原型となったような経路はあったはずであるが,なぜ,その道を利用しなかったのか.

東海道の一見すると非合理な選択したルートを説明する仮説は,まだ持ち得ていない.小夜の中山の謎は,新たな探索空間を広げるための楽しみとなっている.

参考文献

[1] 土木学会中部支部:『国造りの歴史』,名古屋大学出版会,1988
[2] 建設省浜松工事事務所:『東海道小夜の中山』,中部建設協会,1995



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