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ある新聞記者の歩み 29 未完の「新聞革命」悔い無し ブルーの題字誕生秘話

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第29回です。今回は、前回の経営企画室での取り組みの続きです。いわゆるCIプロジェクト(後述の注・参照)に関与しました。具体的には、「新聞革命」というスローガンを掲げ、題字変更や紙面デザインの改革を行いました。通常の記者の仕事では出会うことのなかった、たいへんおもしろく有益な経験だったと振り返っています。(聞き手-校條諭・メディア研究者)

◆ブルーの題字のCI計画始動

Q.経営企画室って日常はどんな仕事をやっているんですか?
 
まあ役員会の裏方・よく言えば勧進元みたいな感じですね。経営企画室の役割としては、取締役会でやる議題を決めてその文書を印刷をして出します。各本社から上がってきた資料なんかをまとめます。その頃、パソコンじゃなくてワープロだったような気がします。印刷も自動的に各人用にセットできるわけではないから、人数分刷ったのを、会議室の広い机の上に並べて、順番に1枚ずつ紙を置いていくっていう人海戦術でやり方をしましたよね。それで役員一人一人の分ができあがっていくっていう・・・。最後は大型封筒に入れて、〇〇常務殿とか表書きして出席者に渡せるようにします。そんなことで新聞社に入って初めて普通のサラリーマン生活を経験したともいえますね。
 
Q.題字を変えたCIの話を伺います。
 『毎日の3世紀―新聞が見つめた激流130年』と題する社史(2002年2月全3巻発刊)に次のように書かれています。

 「毎日は1989(平成元)年12月の取締役会で、創刊120周年(1992年)に向けた活動方針を決めた。「アクション92」と名付けられた方針の中で、その中核、総仕上げとされたプロジェクトがCIであった。」

(社史『毎日の3世紀 新聞が見つめた激流130年』下、2002年2月)

>>>注<<< CIとはコーポレートアイデンティティ(Corporate Identity)の略。企業文化を構築し特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、わかりやすいメッセージで発信し社会と共有することで存在価値を高めていく企業戦略の一つ。当時、NTTやNTTドコモ、分割後のJR各社、キリンビール、日本生命などがロゴマークを変えて、一般消費者に従来の企業イメージを変えてマーケットを拡大していこうという動きが進んでいた。

MAP(毎日アクティベーション・プログラムの略称)実施本部事務局長だった常務の秋山哲さんものちにこう書いています。

「毎日に限らず、新聞社は新聞記者を中心に物事が動く。新聞記者はジャーナリスト精神が旺盛で、正義感に満ちている。愛社心も強い。しかし、経営体の一員である、という認識は弱い。経営に無関心な人が多い」

(秋山哲「MAP運動を振り返って」(秋山哲編著、MAP事務局OB有志発行、2021年3月1日刊の『「新聞革命」の記憶』所収))
(秋山哲さん。当時経営企画室長、MAP実施本部事務局長。経済部長、常務取締役等歴任、退任後、奈良産業大学経済学部教授。著書に『本と新聞の情報革命―文字メディアの限界と未来』(ミネルヴァ書房、2003年)がある。)
(秋山哲編著『「新聞革命」の記憶92』MAP事務局OB有志発行、2021年3月1日刊)

このCIプロジェクト(アクション91)パートナーとして選んだのが当時CIプランナーのトップを走っていたNTTや日本生命などのCIプロジェクトを手掛けた㈱PAOSでした。ぼくが経営企画室に行った時には、すでに担当会社はPAOSと決まっていたと思います。そのPAOSとのつながりっていうのは秋山(哲)さんだったんじゃないかな。あのとき、電通がどうしてうちにやらせないんだとぶつぶつ言っていたのは聞きました。電通もCIやってましたからね。「電通PRセンター」という子会社を持っていました。大分たって広告局に行ってから、毎日担当の電通マンのふたりで酒飲んだりすると「電通がやってれば、部数の拡大もできたと思います」なんてこぼされたりして(笑)。CIは秋山さんが事実上取り仕切って、熱心に取り組みました。

(『「新聞革命」の記憶92』所収)

 Q.CIの外部コンサルタントとしてPAOSを選択したのはどういう経緯なんですか?
 やはりPAOSの実績が大きかったと思います。当時はバブル経済の最中で企業のフトコロも豊かで、デザインで消費者の感性に訴えるビジネスに向かわなくては、という感じが強くなってきていましたね。特にNTTの民営化で昔の電電公社のイメージを一新するロゴマークは評判を呼んでCIの認知度が高まりました。
 
また銀座のデパートで三越や高島屋に較べて同じ銀座にあるが、存在感が薄かった「松屋」デパートはPAOSの仕事でロゴマークを一新して集客が増えて話題となりました。そんなこともあって、これらのCIを手掛けたPAOSと手を握ったと思います。

でもこの選択は間違っていなかったと思います。もし毎日新聞が斬新なロゴマークと、紙面を二つにたたんで真ん中の記事が上下に分かれる、という紙面構成、通称“ハラキリ”などの、デザイン重視の受け手発想(読者優先)変更などに取り組まなかったら大変だったと思います。

ハラキリ紙面は、2つ折にしても見出しや記事が折り目をまたがらない。

Q.でもよく踏み切りましたね。新聞社とデザインなんて当時はあまり結びつかなかったですよね。
 
もともと新聞社には「デザイン」という考え方がなかったように思います。紙面デザインを作るセクションは整理本部に「図案課」なんで呼ぶところがあり、コラム記事のマークを考える程度で、紙面全体を商品として考える意識はなかったと思います。書いている記者は、自分の書いている記事の扱いが大きければ、大きいほどご満悦(笑)という世界でしたからね。「記事で売っているんで、デザインで部数が増えるなんて⋯⋯、特ダネ、いい解説こそが新聞の命だ」。
 
販売は販売で、ある大手新聞社の販売トップは、「白紙でも売って見せる」と豪語し、洗剤、トイレットペーパー、はてはウワサ話では自転車、バイクなどの景品付き押し込み販売で、部数を伸ばしていましたからね。そういう強引な販売作戦で公称1千万部というところまで行きましたからね。業界全体がこの物量競争に巻き込まれていました。毎日新聞は事実上の倒産でもある“新旧分離”などもあり、とてもこの物量作戦に資金的にもついて行けず、販売部数は低迷せざるを得なかった。そこで新しいCI路線にかけてみようという感じもあったと思います。

 

◆社内の抵抗勢力の変わり身

Q.ハラキリ紙面にする時の抵抗はなかったんですか?それをどう乗り切ったんですか?
 
ぼくが経営企画室に行ったのは、1989(平成元)年3月ですが、そのときはPAOSとやることに決まってました。紙面改革を主に担当したのは津原(正明)さんといって、整理本部の人でした。なかなか整理記者としてすぐれた人でした。なぜ整理記者が必要だったかというと、編集局の抵抗勢力っていうのは整理本部なんですよ。紙面改革ですからね。特にセンター折り(通称ハラキリ)紙面というのは、整理の人たちにとって自分たちの紙面製作の生命線を奪われるような面がありました。それこそ戦前戦後の毎日新聞の100年以上の歴史の中で墨守をしてきたものがなくなるのですから、説得しなければならないわけです。

当時、日本の新聞の紙面は中央、地方紙ともほぼこのスタイル、全紙面15段で、半分にすると7.5段。ちょうど真ん中にある記事は、折りたたむと半分になるわけで、読者には読みにくいわけです。これを上下各6段にして、読者に読みやすい紙面にしたんですから。「新聞革命」というのもあながちおおげさではなかったと思いますよ。だから整理本部との打ち合わせがものすごく必要でした。それで津原さんが来たわけです。
 
新しい題字になるのは1991(平成3)年11月5日の朝刊からです。気が付けば32年前なんですね!そのときぼくは経済部長になってました。

1991(平成3)年11月5日からのインテリジェントブルーの題字

「私はその日、編集局にいた。一月前の10月1日に、MAP事務局でもある経営企画室から経済部長への異動を命じられ、刷り上がった前日までの古色蒼然とした題字とは様変わりの、四角い鮮やかなインテリジェント・ブルーの題字をしげしげと見つめた記憶がある」

(佐々木宏人「今こそ第二の新聞革命を」(『「新聞革命」の記憶 92』所収))
(『「新聞革命」の記憶 92』所収)

編集局の中では整理本部が、ハラキリの紙面構成にすごく反対してました。シニカルな連中は、「紙面デザインで新聞が売れるわけないだろう。新聞はあくまでニュース、それも特ダネが勝負なんだ。ハラキリ紙面なんてジャーナリズムの本道から外れている」なんて、締め切り後の夜中、竹橋のビルの高速道路の下に出る屋台で論争をしたもんです。
 
しかし、実施後1ヶ月も経つと、整理本部の記者が「おい、ハラキリのところに記事がはみ出してるぞ、直せ」なんて言って、ころっと変わってるんですよ(笑)。なるほど、組織っていうのはこういう風に変わるもんかと思いました。革新があっという間に保守になる(笑)。これはおもしろかった(笑)。
 
PAOSによる診断や提案は新鮮でした。毎日新聞は取材や記事、紙面では他社に負けないという自負はあるんですが、経営の方はものすごく遅れてるんですよね。そりゃそうですよね、今まで記者一本で育ち、販売・広告の現場も知らない人が編集出身優位で経営陣になるんですから。経営改革というか、受け手発想というのはほとんどなかった。それが相当変わったというか、やっぱり読者にその日のニュースを押し付けるのはなく、このニュースを読者が読んでくれるためにどうすればいいのか、という姿勢を前面に出していかなければいけないぞ、と少し変わった気がします。やってよかったんじゃないかなと思います。
 
Q.そもそもCIやってデザインも変えようぜという機運はどのように生まれたんですか?
 
毎日新聞の部数の退潮、新旧分離という経営危機をどう打破していくか、毎日の社風である個人を大切にするという社風はイイんですが、それが社内のまとまりのなさ、編集局は販売局、広告局などの売り上げにまったく関心を示さず、いい記事を書いているんだから売る努力が足りない、広告を取る力がない⋯⋯と販売・広告局をくさす、という負のスパイラルに落ち込んしまっているような感じでしたね。そこを何とかまとまりのある総合力を発揮できる会社に転換していかなくては、というムードがあり、このCI導入を受け入れたんじゃないかな。
 
PAOSの社長の中西元男さんが「読者のことをまず第一に考える“受け手発想”を、全社員が持たなくては⋯⋯。」といわれて、“受け手発想”での新聞作りを提唱したのは大きかったですね。中西さんはNTT、松屋など自分で手掛けたCIの成功例を、経営企画室のメンバーも同行して全本支社を回り、社員大会を開き、レクチャーしました。説得力がありましたね。
 
ハラキリをやったときに、来年の新聞界ニュースの3つのトップという予測を経営企画室内部でやったんです。そのときに、このハラキリに各紙が追随するだろうかとという問いが何項目かのひとつにあったのを覚えてます。ぼくは追随するって書いたのですが、はずれました。
でも圧倒的にこの紙面は、やっぱり見やすいというか読みやすいというか、親しみやすいという感じが強いと思います。それともし古い題字のママ、題字変えず、ハラキリやらなかったら、毎日新聞これだけ長持ちしただろうかという気がするなあ。
 
Q.いつからそうなったか覚えてませんが、現在の朝日や読売もハラキリになっていて、追随してますね。読者から見たら、以前だったら記事の途中に折り目が来ていて、電車の中で読みにくかったのが、多少読みやすくなったという面はあったと思います。ただ、実際には、ハラキリよりも題字がガラッと変わったという印象の方が強いのではないですか?驚きだったと思います。ハラキリは、マスコミに関心のある人の間では話題になりましたね。
 
そうかもしれませんね。題字変更の当日の11月5日の当日、販売店が包みを開いたら、別の新聞が来たと思ったっていう話があります(笑)。当時、そういう反響をみんな集めてましたが、その中にありました。 でも、今は電車やバスの中で新聞読んでいる人いないからなあ、みんなスマホだもんね(笑)。 

◆毎日新聞の9大問題点をPAOSが指摘

CI委員会の委員長は平野裕専務じゃなかったかな。プロジェクトは1990(平成2)年1月スタート、それでPAOSが一年がかりで調査したりヒアリングしたり、アメリカにも行ったりしました。社史の700ページのところに9大問題点ってありますね。これはPAOSが指摘した毎日新聞の問題点・・・。
 
▽企業哲学の欠如
▽全社的経営マインドの欠如
▽全社的組織マインドの欠如
▽マーケティング発想の欠如
▽受け手発想の欠如
▽記号発信力の欠如
▽プログラム発想の欠如
▽“守りの姿勢”化、無力感の広がり
▽不ぞろいな取り組み姿勢

(社史『毎日の3世紀 新聞が見つめた激流130年』下、2002年2月)

 Q.社史なんて自画自賛ばかりだと断定する人がいるんですが、意外にそうでもないんですよね。これなんか、ここだけ見たら、ろくな会社じゃないというイメージです(笑)。記録として書いているのには驚きました。
 
ホントにそうですね。やはりそこは事実は事実として書くという新聞社だから。それと、こういう社内的欠点と外部の毎日新聞社に対するイメージ調査で、結局、朝日はインテリ向け、読売は庶民派というイメージが確立しているが、毎日には確立したイメージがない、ということが確認されたのです。PAOSは読者、販売店、広告代理店、経済界、政界などに、幅広くインタビューをしたようです。結局、朝日と読売の間で埋没して、独自色を出せていないということなんですね。この9大問題点もそのとおりだと思いますよ。だから、PAOSの毎日新聞の“病理解剖”はよくやったと思います。

◆「自分はジャーナリスト。経営には関心ない」と明言した記者

Q.抵抗勢力は整理部以外にもあったんじゃないですか?
 
それは各本社にありましたね。さっきも言いましたが、組織の中の抵抗勢力は、乗り越えればそれが保守勢力になっちゃうんですね。そこのところが、企業として考えなくてはいけないところなのでしょう。PAOSの手法というのは、かなり社内にショックを与えたでしょうね。四谷にあったPAOS本社に秋山さん、津原さんなどどとよく行って、立ち会って勉強しましたよ。

時々会合の後などで、ぼくとか秋山さんなんか昔の新聞記者気質で、PAOSの人を一杯飲み屋に誘って話したりしました。ところが、その次、お返しで接待してくれるんだけど、麻布かどこかのしゃれた個室のある焼肉屋だったりするんですよ。なるほど、こういう仕事をする人たちはこういう世界なんだ、カルチャーがずいぶん違うということをしみじみ感じました。そういう人たちから見たら、9つの問題点というのもホントにその通りなんでしょうね。
 
Q.PAOSの人達もこれまで手掛けた企業と大分違うと、戸惑われたんではないですか。
 
それで思い出しました。PAOSのチームが社内外の毎日新聞へのイメージ調査を展開するんです。毎日新聞の海外特派員への調査も小田嶋考司PAOS専務と、CIの総責任者の平野裕毎日新聞専務が同行してやったんです。小田嶋さんが当時のニューヨークで特派員にインタビューしたんだそうです。そのとき特派員の彼が「僕はジャーナリストとして生きているんで、毎日新聞の経営には一切関心がありません。販売部数、広告の売上なんて気にしたことありません」といわれてビックリしたと、後年いわれていました。こういう記者たちに“受け手発想”といっても通用しませんよね(笑)
 
小田嶋さんはフランス人の奥さんと今は南フランスに住まわれて、ぼくとはFacebook仲間なんですが、時々日本に帰られた時、当時の思い出話をしたりします。「あのニューヨークでの特派員の人の話には驚きましたね」と、今でもお目にかかると言われます。でも企業人より、ジャーナリストとしての誇りを持つという気分はぼくも分かるんだなあ。
 
Q.だいたい今は名刺が違いますよね。大きいところはだいたいそっけない名刺で。
 
そうそう、昔の毎日の名刺は、縦書きの平凡なものでした。とにかくPAOSの考えは、名刺、社員バッチ、便箋、エンピツ一つまで毎日のロゴをいれ、全国の販売店の看板もイメージを統一しなくてはダメ。CIというのは、やるなら末端まで徹底的にやらなくてはダメという考えでしたからね。
 

◆バブル到来、道半ばで革命ならず 

PAOSの中西社長とか専務の小田島孝司さんが担当だったのですが、本当によくやってくれましたよ。題字を変えて、それに伴い社員の意志の結集を図り、成長させて行くんだ、というその手法には目から鱗(ウロコ)が落ちることが何度もありました。会社のロゴマークの大切さ、デザインの重要性などについて勉強しましたね。

 ところが最後の方になって肝心の毎日新聞の体制が、腰砕けになるんですよ。1991(平成3)年のバブル崩壊で、あっという間に販売・広告収入なんかが減っていくわけです。その結果、全社的な経費削減でCI費用が大きく削られてしまいました。当初は、数百億円の資金を投入して、全国の販売店に青の統一デザインの看板を掲げる予定だったのですが、そういうことが出来なくなってしまいました。その他、名刺はともかく、便箋なんかは「残りがあるからまだいいだろう」とか、途中で止まってしまった面がありました。統一したブランドイメージを確立しなければいけないということがあったのですが、そういうのがほとんどできなくなってしまいました。

(『「新聞革命」の記憶92』所収)
(『「新聞革命」の記憶92』所収)

やっぱりバブルのツケで、経済部の先輩で経営企画室での先任の吉原勇さんが書いた『特命転勤 毎日新聞を救え』(吉原勇著、文藝春秋、2007年刊)の中にも出てくると思うけど、毎日新聞もバブルに踊らされて、企業が株価の上昇を背景に競って投資した「特金(特定金銭信託)」などで、バブル崩壊で大損をします。ぼくはやった方がいいなんて言ってた方なんですが(笑)。そんなことで資金不足となってしまって、徹底できなかったわけです。予算がなくなるのはあっという間でした。半年か1年後に、中西さんや小田島さんと会ったときに、「残念でしたね」と言われましたよ。革命いまだ成らずでした。“新聞未革命”みたいな(笑)。

『特命転勤 毎日新聞を救え』(吉原勇著、文藝春秋、2007年)

 そういえば、パレスサイドビルの社標のデザインも変えるはずだったけど、どうなったのか・・・。それから社章、バッジも変えなかったんじゃないかな。いまはどうなっているんだろう。結局、僕がいた当時変えたのは、紙面のハラキリと題字だけだったですね。題字から名刺からボールペン、販売店に至るまで全部統一したイメージにするっていうのがPAOSの考え方でしたし、われわれもそれに共感して総合的に考えるというつもりだったのですが⋯⋯。

(2004年新潟県小出町(現魚沼市)にて校條諭撮影)

 Q.バブルの影響はそんなに強いもんだったんですか?
 
広告収入だって、バブルの最盛期は500億円近くあったんじゃないかなあ。それがあっというまに380億くらいになってしまって。新聞社にとってもバブル崩壊というのはすさまじい影響を与えたと言えます。不況になると、企業は一番先に締めるのが広告費といわれ、そうなると媒体力の低い毎日新聞なんかは、いちばん割を食うわけです。
まだデジタル化の影響はそんなに意識されていなかったと思いますが、社会全体がデジタル化の効用に目覚め始め、経費削減で新聞部数を削り始めたんじゃないかなー。
 
毎日新聞のCI作戦も、余裕のあるうちに手を打たないと毎日新聞はじり貧になるよというのは、ある程度みんなわかっていたと思う。それがわかってるんだけど、守りの姿勢とか無力感の広がりなんて指摘されているように、全社的な経営マインドの欠如というか、じり貧になりつつあった中で、それを打ち破ろうと乾坤一擲やらなければとよく決断した、よくやったとぼくは思ってます。でも結局、やりきれなかった。なんとも残念ですね。
 

(2022年山梨県石和温泉駅近くでバスの中から校條諭撮影)