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#63 人間のための街路

"人間のための街路"を読了。
「アメリカ大都市の死と生」を読んでから、内容が関連しそうなルドフスキー氏の本書は以前から読んでみたいと思っていたので、ようやく読むことができて良かった!
ニューヨークという街の成り立ちから世界の都市の話に話題が移り、人間が楽しむための街路としてイタリアを中心とした事例を取り上げている内容。
要所要所で、街路が人間のためではなく車のためになっている米国に対する批判を織り交ぜながら語られている。
「アメリカ大都市の死と生」や本書を読んでから、自分が住む/働く街を歩くときはどうしても街路/路地の活気を意識的に見るようになってしまった。笑
かなり面白かった!

ちなみに本書に関する学びは多かった中で、特に印象に残った3点は下記。

  • 「街路を散歩する以上に人生を良く理解できる方法はない」

  • 本当のカフェというのは、必ずと言って良いほど、それが歩道であるにしろ無いにしろ街路の一部なのである。カフェは静止したプロムナードであり、いわば歩行者の停車場である。

  • 街路は単なる道路ではない。まして自動車のための道路ではない。街路は歩行する人間のためにある。道路はただ車のために機能すればよく、したがって単純なほどよいであろう。これに反して街路は、人間のための存在であることによって、多様で複雑な諸機能を発生させ、むしろそれらの機能の共存にこそ街路の街路たる所以があると考えられる。


街づくりに関わる人は必読書だと思う。
これは良書。

以下、学びメモ。
ーーーーー
・イタリアでは、自然現象から人を保護するための或る種の”張り出し”の利用の歴史は古い。それはローマ帝国の時代あるいはそれ以前に遡る。ヨーロッパの土地におけるポルティカスの原型はギリシアの「ストア」で、これは屋根付きの柱廊で、町の社交的、政治的な広間であった。いつでも開いていて、市場や公共の美術館として使われ、そしてしばしば裁判の法廷としても使われた。それは市民たちの寄付によって賄われていた。
・★「街路を散歩する以上に人生を良く理解できる方法はない」とモダニズム文学小説の先駆者としても知られるヘンリー・ジャイムズは主張している。★
・階段は登るためだけに存在している訳ではない。現在に至る歴史の中で古代の円形劇場や西欧世界の階段は人々の集まる理想的な場所だった。我が国(米国)よりも穏やかな天候のもとでは、屋外の階段は、腰を下ろすよう人々を誘う。
・町となじみになるためには、その町の朝市に行くのが早道である。
・キャノピーのある街路は、見る人を魔法にかける。日陰を作る伝統的な手法として現在でも有効性を維持している。
・ギリシアやイタリアは他のヨーロッパ諸国に比べて地震が激しいので、街路でフライングバットレスを見かけることは珍しくない。そしてこのアーチはしばしば建物の増築部分の支持構造(土台)として使われる。そうして出来たのがフローティング・フラットで(本書の造語)、街路を跨いでいる家の部分。つまり、街路の両側の家に固定され、空中に掛け渡された部分である。
→見落とされがちなのはその美学的、心理学的な効用である。街路を歩くとき、視界が頭上の構築物によって常に遮られているため、輪郭のはっきりした空間の連続が作り出され、いわば一連の戸外の室内空間が形成されるのだ。そして、この区画された街路の景観は、我々を不思議なプライバシーの感覚の中に包み込んでくれる。
・★本当のカフェというのは、必ずと言って良いほど、それが歩道であるにしろ無いにしろ街路の一部なのである。カフェは静止したプロムナードであり、いわば歩行者の停車場である。★
・高い建物は歩行者にとって禍いのもとである。その広大な外壁が、風を下方へと逸らしてその勢いを強め、風に向かって歩くことを大変な苦痛にしているのだ。建築家こそまさしく「開発による都市の死滅」に向かって動いている投機業者の小間使いの役割を果たしている。
・★(解説)街路は単なる道路ではない。まして自動車のための道路ではない。街路は歩行する人間のためにある。道路はただ車のために機能すればよく、したがって単純なほどよいであろう。これに反して街路は、人間のための存在であることによって、多様で複雑な諸機能を発生させ、むしろそれらの機能の共存にこそ街路の街路たる所以があると考えられる。★
→街路とは、ルドフスキーの言葉を借りれば、エリアではなくヴォリュームであり、建ち並ぶ建物と一体となって、都市の居間となり、遊び場となり、様々な人生のドラマが上演される舞台となる多義的な場所なのであり、絶えざる生成と変形のうちにあって都市コミュニティ固有の生命を培養していく母体と考えるべきなのであろう。

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