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高齢者には、「あきらめる優しさ」が必要?

高齢者とのお付き合いは難しい。それが家族なら尚更のこと。どこまで健康を心配するのか優しさか、本人の自由にさせることが優しさなのか。「優しさ」って言葉は、正解のない事柄のうちの一つだと思う。

先日、北海道に住む祖父母の家に、両親と行った。

母は北海道の田舎町出身。
父はそこそこな都会っ子。
私は生まれも育ちも東京。

合理的で堅い父の性格と、ゆったり時間の流れる祖母との関係は、難しい。

祖母は病気もちで、食事制限を課されているが、私が行く度、北海道産の食材を沢山使った料理を用意してくれる。そして、祖母は病気を気にする素振りを見せながらも、私たちと同様か、それ以上の量の食事を食す。

テレビで得た健康法を披露しながら、過剰に食事を摂取する祖母の矛盾した行動を、父はよく思わない。祖母の健康を、父なりに心配しては、咎めている。その都度、祖母は落ち込み、食を止める。

小さくなった祖母の様子は、端から見ていると痛々しい。私はというと、「残り少ない寿命なんだから、本人の好きなようにさせてあげればよいのに」という考えだ。食べたければ、好きなだけ食べればいい。ただ、それが祖母の幸せなら、外野がとやかく言うことは何もない。祖母の残りの人生もわずかだからこそ、より好きなものに費やした方が良い。

でも、それは祖母に対して、諦めに近い心持ちでもあり、すごく失礼な対応なのではないか とも思う。私の姿勢は、ある意味「見放し」のように冷たい姿勢だから。どこか諦めたような気持ちで、祖母を受け入れている。

父なりの「優しさ」は、決して祖母を笑顔にはしないから、私は受けれがたい。が、父にとっては、祖母を想っての言動なのだと思う。

誰かを想って行動することこそ「優しさ」だ、と私は思う。
父と私は、両者とも、行動は大きく異なるが、祖母を想ってのことだ。

どちらの方が祖母にとって「優しい」のかは、分からないし、答えも無いように思う。が、今回の出来事を通じて、「優しさ」は一種類ではないのだなと感じた。自分なりの優しさもあれば、父なりの優しさもある。どちらが正しいか、幸せな方か、それは分からない。すれ違ってしまう事も多く、むしろ、互いが互いのことを想って、空回ってしまうことなんて日常茶飯事だ。

人付き合いって行為は、最高に難易度の高い事象だ。だからこそ、上手く繋がったときの高揚感がたまらないのかもしれない。だから、人と関わることが難しくても、やめられない。

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