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僕の家にはフェミニズムが必要だった。 (1)

今回は三記事で完結だ。気分で次を投稿しようと思う。

僕は、1998年に生まれた。父、母、姉がいる。傍から見たら、少し狭い家に住む幸せな4人家族。僕と姉は、すくすくと育った。

家族旅行にも行った。親戚が大勢来て、毎年海にも行っていた。家族旅行の写真だってある。みんな笑顔で写っている。

僕は、22歳になった現在、心に深い闇を抱えることになった。家では何があったのか。夜中の三時。振り返ってみる。この記事では、僕がずっと抱えてきた心の闇をさらけ出す。

男らしさを求め始めた僕

両親は共働きだった。父はタクシーの運転手、母は事務職。小学生1・2年生のときの僕は相当痩せていたと思う。父は、俺のことを毎日のように「爪楊枝みたいな体格だ」と馬鹿にした。晩飯の時間が苦痛で、ご飯が喉を通らなくなっていったことをかすかに覚えている。

2年生の中盤から、何かをきっかけに僕は太り始める。三段腹、二重あご。学校では、「デブ」とからかわれるようになったが、父は、たくさん飯を食べる僕をみてご機嫌だった。僕は、父に認められたような気がして、このときから父の言う「男らしさ」を体現しようとするようになる。後に、僕の男尊女卑思想に繋がっていく。

母の日常

母は、毎朝僕たちを起こし、朝ごはんを作り、洗濯物を干し、仕事に向かった。仕事から帰ってきて、家族のご飯を作った。僕にはその光景が、当たり前に写った。母は、仕事に遅れるからと、洗い物や洗濯物をできないで仕事に向かった日もあった。そんな日は、父は「洗い物ができないなら、出ていけ」と、罵声を浴びせた。仕事が少し残業になり、晩御飯を作れないこともあった。その時も父は、「飯を作れないなら家にいる意味がない。出ていけ。」と罵声を浴びせた。僕は、父が言うように、「母はだらしない人間だ。」と、父の後を追うかのように、考え始めた。

夜は、母が居た。母は、きちんと僕たちのことをしつけようとしてくれていた。夜は、ご飯も作ってくれたし、きちんと早く寝かせようとしていたし、洗濯物もしてくれていた。ただ、小学校低学年のうちに僕は、「母の言うことは聞かなくても大丈夫。怒られても怖くない。父の言うことだけ聞けば良い。」と思い始めていた。なぜか?母が居ないところで父は、母のことをけなしていたからだ。僕は、潜在的に、「母はだらしがない人間だ。言うことは聞いてはいけない。」とまでも思っていた。「夜は寝なさい」と言っても寝ない僕。それを知った父は、「子どもにどんな教育をしているんだ。」と、再び母に罵声を浴びせた。

僕は、母親っ子だった。言うことは聞かないけど、母のことは好きだった。

休日夜は、家族全員が一つ屋根の下で寝ていた。といっても、別の部屋で。基本的に、母・姉はリビング、父・僕は寝室。寝室が3人分のベッドしかないためだ。

僕は、父と一緒の部屋で寝ることが嫌いだった。あの二人の空間で、毎週末夜「お前は女々しい。」「お前はオカマみたいだ。」と言われた。毎週末の夜が、嫌で、嫌で、あの部屋から逃げたくて、僕は母と姉の寝るリビングへ逃げていた。父は、僕がリビングで母と姉と寝ていることに気づくと、「お前は女と一緒に寝るのか。」「男は男、女は女だ。」「お前は女なのか。」と僕に罵声を浴びせた。そして、寝室に連れもどされる。ぼくの精神は、すでにその時からおかしかったのかもしれない。

父は、母のことも、毎週夜は悪くいった。母のことを「豚」とも呼んだ。「酒豪」、「豚」、「アホ」、「馬鹿」。そんな言葉を使って、母のことを見下していた。僕は、次第にそんな光景が普通だと思うようになっていた。

母は、僕のお金を財布から取っていった。

こんな状況で、ストレスがたまらない訳がない。母は週末、たばこ、パチンコ、衝動買いにはしる。母は、次第に自分の稼ぎ、父からのお小遣いを使い切るまでお金を使ってしまう。

僕は貯金家だった(今では、お給料が入ったらすぐ使ってしまうのだが)。そのことは家族内でも知られていたと思う。月1000円や2000円のお小遣いをコツコツと、目的も無く貯めていた。母は、気づいたら、そこからお金を取っていた。

母とのこんな会話のやり取りを覚えている。

僕「ねえ、ママ。お金取ったでしょ。」

母「ごめんね。ちゃんと返すから。しっかりしないとだよね。」

僕「子どものお金、黙ってとって、恥ずかしくないの?」

僕は、お金を取っていく母に、次第に不信感を覚えていった。もはや、母の言うことなど、何も聞く必要がないと思っていった。

あっ、あの、、、今買いたい本、、が、、、対話についての、、、本で、、、5冊ぐらいあって、、、1冊1000円以上して、、、買えない、、、ので、、、ご支援頂けたら、、、泣きます、、、