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風景のレシピ あとがき|食べられないドーナツ|nakaban


食べられないドーナツ

自分とは「誰」なのかを言い表すことは難しい。
名前、社会的な肩書きや仕事歴を書き出すことができても、それが自分です!と宣言するには心許ない。
それ以外には何もない。せめて、ここから見えるわたしの周りのものはあなたにお伝えすることができる。
テーブルや積まれた本、段ボール箱が見える。描きかけの絵がたくさんあって、ワットの足りない暗い電球がぶら下がっている。
なんだかそれら全てが、わたしの内面をさらけ出しているように見える。恥ずかしい……。
そのような感じで、この作業場の体たらくからは、わたしらしさの妙な説得力を感じる。
それならば、と外に出て郊外の野原に向かう。周りは自然物ばかりで、ここには自分の影響下にあるものはない。
だがしかし。今日ここにやって来たという状況そのものがなんだかわたしらしい。
バッタが跳ね、空に飛行機雲が見えた。靴下には取るのが大変そうな植物の種がびっしりと付いている。
風景と自分は一見無関係であるように見えて、実は表裏一体なのではないだろうか。
「そこ」に意識的にやって来たにしろ、状況に流されて辿り着いたにしろ、自分がいるこの現在地だけが自分を表しているような気がする。
わたし自身はドーナツの穴のように空っぽであり、自分を取り囲む風景だけが自分を成立させている、とでも言うかのように。
ドーナツの穴なんて悲しいし、君には責任感というものがないのか、とお叱りを受けるかもしれないが、わたしはこの考え方が好きだ。
自分という概念を皮膚の内側に閉じ込めるよりずっといい。
ドーナツの穴には風が吹いている。いつの日かドーナツが風に齧られて概念上の穴がなくなると、わたしはここから爽やかにいなくなる。


わたしは風景の絵を描いている。主に空想の風景の絵で、そこにはなんでも描いていい筈なのだけれど、やはり自分の好きなモチーフは偏っていると痛感させられる。
自分は実際にその絵の中を旅しているような気分であり、場違いなものは描かない。でも、自分の引き出しは少ないというジレンマがある。
絵を発表すると、その狭さが良いのか悪いのか、君らしいね。と言われたりする。
少しだけ欲が出て、風景の見方の幅を広げてみたくなって始めたこの「風景のレシピ」は、面白さだけでなく、図らずも自分と世界の境界に揺らぎを与えてくれた。
今では風景は比喩ではなく、本当に自分のからだの一部であり、たべものですらあると実感を深めている。
偉そうに書いてしまっているが、資料にあたりながら、昔のひとはそのことをちゃんとわかって知っていて、風景を自分のからだの一部のように、あるいはたべもののように大切に取り扱っていたということにも最近気付かされた。
ある時代までの絵葉書などに見ることができる昔の風景や建物がとても美しいのはそのためだろう。
ただ、昔は良かった、などと嘆き続けるのもあまりいいことではないので、現代人としての立場を忘れずに良いと思う風景を描き続けて行きたいし、実際の風景との付き合い方も暮らしを通して考えてみたい。


なお、「風景のレシピ」はここで一旦終了だが、書きためたレシピからいくつかを取り上げて、ヴァリエーションを描いてみたいと思っている。
新しいレシピも機会を見ては追加していきたい。
またどこかでお会いしましょう。ありがとうございました。お元気で。



◎プロフィール
nakaban (なかばん)
画家。絵画、書籍の装画、文章、映像作品、絵本を発表している。
新潮社『とんぼの本』や本屋「Title」のロゴマークを制作。
著作に『ダーラナのひ』(偕成社)『ことばの生まれる景色』(辻山良雄との共著、ナナロク社)『窓から見える世界の風』(福島あずさ著、創元社)など。
好きなことは果樹栽培、ポストカード収集、そしてもちろん絵を描くこと。
本を読むのが遅い。
広島市在住。www.nakaban.com

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