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障害は言い訳にならない

【心に寄り添う悪者】からの続き。

前回は、【正すべきは本人ではなく行動】について話したが、今回は、実際に正すべき行動とは何なのかについてのお話。

私が支援をする上で決してブレる事のない芯として【正すべきは本人ではなく行動】と【社会として捉える】を挙げたが、正すべき行動とは、この【社会として捉える】に繋がる。

まず、社会として捉えるとはどういう事か。

端的に言うと、それは、子が社会に出る事を見据えた支援である。

これは、決して「定型の人々に合わせた行動をしろ」と言っているのではない。

『自分の個性・特性を守るために、そして適切な支援を受けるために、社会に適応する』という考え方である。

例えば、幼少期の子がスーパーの床で寝そべって暴れながら「買ってー!」と泣き叫ぶのは、社会としては許される許容範囲だろう。

だが、小学校高学年になる子が同じ行動をしたらどうだろう。

小学校低学年の子が、肌着が出てたりパンツが見えてたり洋服の前後が逆という、身なりに全く無頓着な風貌でも、まぁ社会としては許される許容範囲だろう。

だが、高校生の子が同じ風貌ならどうだろう。

この子達以外にも、これまでの記事で出てきた、
【うるさいと言って発狂する子】
【自己否定の言葉を毎日言う子】
この子達は、親元から離れて施設での暮らしに適応し、仕事に従事し、社会と繋がれるだろうか。

様々な意見はあるだろうが、私個人の考えとしては絶対NOだ。
なぜなら、社会に出る以前の問題だらけだからだ。

自分の希望が叶わなければ暴れる子は、少年院からの刑務所コースまっしぐらだろう。
パンツからお尻が見えて、ヨレヨレの服にフケをつけた人を雇用する会社があるわけがない。
何でも「うるさい」と言って発狂する子は、雇用もなく施設入所を断られるだろうが、親亡き後は誰が面倒をみるんだろう。多分いないだろう。
自己否定ばかり繰り返す子は、自己否定から発展し、最終的にはきっと自傷行為だろう。

こんな子達をたくさんみてきた。

この子達は「多様性の社会だから〜」と許されるだろうか?
このような人が近所に住んでいて不安に感じない人はいるだろうか?
雇用したり、同じ屋根の下で暮らす事はできるだろうか?

無理だろう。

親が高齢になって手に負えなくなった時には、もう完全手遅れである。
この子の未来に社会は存在しない。
だから私の答えは何があろうとNOなのだ。


では結局どうするのか。

ここで、前回記事の【正すべきは本人ではなく行動】なのだ。
行動をできるだけ早いうちから修正すればいいのだ。

保護者は受容してる場合ではない。
支援者は寄り添ってる場合ではない。
障害は言い訳にならない。

マイナスになる(迷惑)行動を消してこそ、発達障害の子達がもっている素晴らしい個性が光輝くのである。

自閉症の人がもつ素晴らしい才能に着目したドラマがいくつかあるが、その主人公は人を脅かしたり恐怖心を煽ったりはしない。
だからこそ、素晴らしい特性という名の個性が世に認められるのだ。

※ただ、特性上、どうしても仕方ない事(感覚の過敏性や、トゥレットで突然奇声が出てしまう、LD、緘黙・・・)は当然ある。
そういった事に関しては、社会からも歩み寄っていただかなくてはいけない。
そこの理解や配慮はあって然るべきである。

私は、施設に在籍する児童を支援するにあたって、(この行動は社会として許容されるものか?)を必ず考える。

すぐにため息をついたり泣き出したり悪態をつく子。
ところ構わず走り回り、終始動き回る子。
たくさんの人がいる中でも気にせず下半身を触りだす子。
子どもが大好きで小さい子を見つけると至近距離まで近づく子。

この行動は社会出た時に、この子の足枷にならないだろうか。
この行動のせいで、この子のもつ素晴らしい個性が埋もれてしまわないだろうか。
自問自答の繰り返しの毎日である。

自閉症スペクトラムの支援をする上で、このように、【社会として捉える】は、本人や関わる人にはもちろん、社会との関わりにおいてもとても大切な目なのである。

だから私はこれからも、【正すべきは本人ではなく行動】と【社会として捉える】の2つの芯をブレさせる事なく、子ども達の未来を少しでも生きやすくするために働き続ける。

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