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小説を読んで「わからなかった」とき、自由になれる気がする

受験生のころ、小説の読解問題が苦手だった。制限時間内に小説を読みとおし、与えられた選択肢のなかでもっとも適切なものを選ぶ作業。

――大人になってからは、あんなにつまらない小説の読み方は他にないなと思う。でも学生時代は、小説を読んで「きちんと理解する」のがとても大切なことのように思えた。

大人たちの「名作をいくら読んでも、理解できていないと意味がないよね」という意見に、たしかにその通りだと思った。もっと幼いころはなにも考えず自由に読んでいたはずなのに。

大学生になると大学の図書館が身近になる。文学部の図書館にはもちろん世界の名作文学がずらりと並んでいた。どんな内容なのかもろくにわからずに受験生時代に一所懸命暗記したタイトルが、見渡す限り。これを読んだら立派な人間になれるのだろうか。背伸びしてチャレンジしてみたくなった。

しかし名作小説はやはり手強かった。読みおわっても結局なんの話だったのか、いまいちよくわからない。私は後ろめたさを感じて、読んだあとにネットで検索するようになった。

はじめは「みんなはこれを読んでどう思ったんだろう」という軽い気持ちで調べていたが、書評ブログの存在を知ってからは、書評ブログを読むことがもはや読書の答え合わせのようになった。

きちんとわかったぞという満足感と引き換えに、読書中におぼろげながらに抱いていた自分の考えや考え未満の感じ●●が、塗りつぶされていくような感覚がした。


本を読みつづけて何年か経った今、考え方が変わった。小説を読んでわからなかったという体験は、実はすばらしいことなのだと今では信じている。むしろそれは、最高の読書に近いのかもしれない。

なにかを読んですべてがすっと理解できるというのは、その小説が最初から自分の理解できる範疇の本だったということだ。すんなりと受け入れられるほど自分と価値観が近しく、表現方法も自分に馴染みのあるものだったということ。

それは決して悪いことではないけれど、読む前の自分と読んだあとの自分に変化がない、と言うこともできる。

逆に小説を読んでわからなかったという体験は、自分の理解の範疇を超えた新しい価値観や表現方法の本との出会いを意味する。それは既存の価値観から解き放たれ、もっと自由になれるチャンスかもしれない。

「ダメだわからない!」と放り投げず、わからなさをまるごと受け止めてみれば、少しずつ自分が変わっていく。世界の見方が新しくなるきっかけになるかもしれないのだ。大げさに言えば。

たとえばジブリの『君たちはどう生きるか』を観て、「よくわからなかったけど、なんかよかった!」と感想をつぶやけば、「本当に? そのよさをちゃんと説明してよ」とからかってくる人もいるかもしれない。

でも引け目を感じる必要はまったくないのだと私は思う。わからないことに出会って、新しい考え方へとつながる自由への一歩を踏み出したのだから。

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