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短編小説 BGMに寄り添われて(2)

 (4200字程度)


 イントロに区切りがつくと、ハスキーな声が入り込んできた。この声に何度慰められたことか。あるところでは、優しく語るようにして歌い、あるところでは、寂しく呟くようにして歌っていた。
 中学の、何年生だったのだろうか。一年生か、二年生か。どこで聞いていたのだろう。
 初めて聞いた時、その場で雷に打たれたような感覚に陥り、その後、テレビだったかラジオだったかを通して、曲の名前を知った。後になって忘れないように、「壊れかけのRADIO」と、その場でメモ書きしたのを覚えている。
 その後、半年か、一年か。私は何度も何度も、この曲ばかりを聞いていた。するといつの間にか、彼の方でも聞くようになっていた。どんな風にして彼に教えたのか、細かなことは覚えていない。が、私の方が彼に教えてやったことだけは確かだ。
「お前、ずーっと聞いてたよな。あんまりこの曲ばっかり聞いてるから、何かあったのかと思ってた」
「実は自分でもびっくりしてた。そういうことってそれまでなかったからな。何にもないけど、はまっちゃったんだよ」
「はまりすぎだろ」
「でもその後、お前もはまってたじゃん」
「はまっちゃったね」
 そう言って、彼は笑った。適度に力の抜けた、自然な笑い方だった。
 一層ハスキーになった歌声が、過ぎ去って初めて気づく思いを、力の限り訴えていた。 
 八重歯を見せてなりふり構わず歌うその姿を、私は脳裏に描いていた。表現せずにはいられない人間の圧倒的な凄みと言葉以上の説得力。どこか本物の何かに触れたような、センセーショナルな感覚だった。
 私は、久しぶりのその感覚が、その感覚から引き出されるあらゆる思い出が、次々と脳裏を占めていくに任せていた。記憶が私に語らせたのかもしれない。
「自分でも変だと思うんだけどさ、中学生がこの曲にはまるって、おかしくないか」
「何が」
「だってこの曲って、思春期には聞こえてたものが大人になるにつれて聞こえなくなってしまったって、そういう曲だろ。聞こえないも何も、その時俺ら中学生じゃん。思春期真っただ中のくせに、ラジオの声が聞こえないって、背伸びもいいとこだと思わない?」
 彼はにわかに前のめりになった。「お前も、それ考えた?」
「何だよ、お前もかよ」
 先取りされてしまったような気がして、私は可笑しくなった。一方で、私の曖昧な過去を彼が丁寧に整えてくれている気もした。
「でもさ、わかる気がしたんだよ。いつか、ラジオの声が聞こえなくなっちゃうんだろうなって。なんとなく思ってた。もしかしたら、あんなに好きだったラジオがもうそんなに心に染み込んでこなくなってきてたのかもしれない」
「わかる。心のよすがだったはずなんだけどっていう」
心の中で、お前もかよ、ともう一度呟いた。
「そう。それとも、予感みたいなものだったのかな。どちらにしても、いつかそういう日がくるのかもなって思ってた。だから実際ラジオが特別なものじゃなくなってからも、やっぱり聞き続けてたんだ、この曲だけは」
 わかるわかる、と言いながら、彼は何度も頷いていた。
 ややあってから、彼は言った。「懐かしいね」
 私の方も、恥ずかしげもなく、何のてらいもなく、感じたことを口にしていた。
「懐かしいね」
 その後、話は弾んだ。ラジオの話がひと段落着くと、ラジオの面白さを教えたのは俺だからな、などと彼も負けずに話し始めた。
 気が付くと、昔のことばかり話していた。好きだったマンガやら、クラス担任の癖やら、体育館までの通路のいびつさやら、そういった類の話が、二時間も三時間も、とめどなく溢れ出てきた。話題は、あちらへ行ったかと思うとふとしたきっかけで元の辺りに戻り、その周辺を一通りうろつくと、一気にそれまでの範疇を飛び越えたりしていた。懐かしいと感じられることなら、どんな話題でもよかった。下らなければ下らないほど、楽しく思えた。近況や目前に迫ったことについては、ほとんど話題にもしなかったし、また、二人ともそのことに気づいてもいたのだが、あえて取り上げる必要もないように思われた。下らないことを下らないままに話している方が、本来辿り着きたいと感じている場所に、近づいていける気がした。
 たくさん話し、たくさん笑った。それだけで、その時間のほとんどが占められたような、そんな時間だった。それは、私にとって、一見どうでもいいようでいて核心を突かれているような、実はなかなか得られがたい時間だったのかもしれない。
 飲み方までが、学生時代に戻っていた。後先も考えず、もう一杯もう一杯と頼んでいた。居酒屋を後にする頃には、互いにべろんべろんになっていて、呂律が回っていないことだけで、腹を抱えるほど笑うことが出来る始末だった。かろうじて覚えていたオープンキャンパスの予定のみが、この宴会をお開きにすることができた。
 帰り道の途中で、初めて自分の疲れに気が付いた。部屋に着くなり、電気も点けずに服を脱ぎ、その辺にあった半ズボンをひっつかんで、地中の虫のようにしてベッドに潜り込んだ。
 仰向けになると、目に前に天井があった。何も見えなかった。ただ底の見えない暗闇が広がっているのみだった。酔いが回り、何も見えないはずの闇が渦巻いて見えた。
 底の見えない闇がいつまでもグルングルンと渦を巻いているので、久しぶりの酔いの前で私はふと老いを感じ、まだまだ、とおもむろに力を入れて目を開いてみた。しかしそんなことで焦点が定まるはずもなく、闇は変わらず渦巻いていた。定まらぬ闇の中に自らの幼さを見た気がして、一皮むけばこんなもんかと、私は半ば自虐的に苦笑した。
 一人の部屋に、ふと寂しさがこみあげてきた。もう長いこと、こんな寂しさは感じたことがなく、二度とこみ上げてくることのないものと考えていた。
 今さら寂しさなど感じないという人はもちろんいるし、私自身もまた、自らのことをそういう人間だとばかり考えていた。懐かしさで心地よくなるとそのぶん寂しさが引き立つのだろうか、とそんなことも考えた。この寂しさが、故郷への愛着からくるものであることは、認めざるを得なかった。これがいいものであるのかどうか、私は計りかねていた。
 ぐるぐると回り続ける闇に心細さを感じていると、先ほど店内で聞いたあの曲が、ふいに脳裏に上った。滴が垂れたようなピアノのイントロから順に聞こえてきた。思いのほか、鮮明な音だった。酔いが回ると、逆に鮮明に聞こえてくるものなのだろうか。
 ふらつく声を気に掛けることもなく、私は鼻歌を歌っていた。
 やはり優しく寄り添うような曲だった。ししゅんきにー、と歌うと、にー、のところで、身の内の毒素が浄化されていく心地がした。一番が終わり、いつもーきこえてーたー、と歌った途端に、世界中の人が自らの嘆きに耳を傾けてくれている気がした。
 その気になって続けていると、はっきりした口調で、はーなやいだーまつりのあとー、と歌っていた。するとそのフレーズを口にした途端、鮮明なVTRが脳裏を駆け巡った。見覚えのある幾つもの映像が、一種の衝撃を伴って、ほとんど同時に、一気に、脳裏に浮かんだ。その衝撃はあまりに強いものだったので、めくるめくVTRが次々と意識に上る度、まるで耳のそばでバババと切り替わる音が鳴っている気がした。
 それは私の思い出たちだった。いつかの昔に意識のそこまで落ち込み、その底で落ち込んだままになっていた思い出たちが、同時に、かつ、切り替わりながら、やってきた。
 あまりに遠く、あまりに強い、ありふれた思い出たちに、打ちのめされてしまいそうだった。私の意志如何に関わらず、思い出たちは溢れ出て来て、私の海馬から私の網膜を通り、渦巻く天井の暗闇にその幻影を映し出していた。
 私は、映写機になり、プロジェクションマッピングになった。私は、私自身から、私自身にしかわからない記憶の数々を映し出していた。出てくるものを出てくるままに任せていた。少し落ち着き、恐ろしいものでないとわかると、それに、鼻歌まで添えた。
  それにしても、なんと心揺すぶる歌詞だろう。華やいだ祭りのあと、静まる街を背に。
 立ち現われる思い出たちに私は身を任せた。浮かんでくるのは、すべて夏祭りに関する映像だった。
 次々と切り替わっていく、それら記憶の断片を眺めながら、あらためて私は考えていた。夏祭りってすごいもんだ。夏祭りを思い出した途端に、周辺の記憶たちまで一気に押し寄せてきた。
 それも、全てが郷愁を誘う。ひとつまみ分のエロティシズムまでが、心の隅でひょっこり顔を覗かせる。そのくせ、大したことなど何一つ起こってもいないのだ。

 住民にとっては、次の年も同じようしてやって来るものかもしれないが、思春期の私たちにとっては、次の年には異なる顔つきでやって来る、それぞれが一度きりのイベントだった。
 人次第で、持つ意味合いも違ってくれば、同じ人でも、今年と去年とでは全く違うものだったりする。ワクワクして仕方のない年もあれば、いじけて家に閉じこもりたい年もある。
 しかしそこは田舎の宿命とでもいうべきか、楽しいものであれ、侘しいものであれ、それは、年に一度の晴れの日であるに違いなかった。楽しいものであれ、侘しいものであれ、狭い田舎に住んでいて、夏祭りから完全に逃れ超然としているなど、無理な話なのだ。
 夏休み中の、年に一度の催し物。 

 故郷が、鮮明な色彩と共に立ち浮かぶ。それぞれの、懐かしい人たちとの思い出。その声。その匂い。その時々の、嬉しさ、煩わしさ。今になって感じる、それら一切の記憶への愛しさ。

 並んで歩いた時に、右の肩越しに見た涼しげな横顔。時折吹く風に、黒く艶めいた長い髪がたなびく。もともとはっきりとした顔立ちが、薄明りの下で、一層美しい輪郭を作っている。そして、吹かれた髪をかき上げる度にその姿を晒してはまた隠れてしまう、美しい耳。清らかで、どこかあでやかなその耳の官能性に打たれた私は、向こう側の屋台を眺める振りをしては、その耳を盗み見ていた。中学生だった私たちは、普段から並んで歩くことが少なかった。そのぶん、その日の彼女の耳は、一段と美しく見えたのかもしれない。


(つづく)


○続きはこちらからどうぞ

〜最終回〜 短編小説 BGMに寄り添われて(3)

https://note.com/sokopen/n/n9bf83abef0d6


○始めから読みたい方はこちらから

短編小説 BGMに寄り添われて(1)

https://note.com/sokopen/n/n7aa35e14d1e6

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