見出し画像

「死ぬ事と延命と」

「死ぬ事と延命と」
solaoto

少子高齢化により世の中の半分近くが高齢者となり、
多死社会、と言われるような世の中になってきたけれど、
多かれ少なかれ間も無く死んでゆくのが当たり前の
高齢者が溢れているにもかかわらず、
その割に、人々にとって死はなかなか身近にはならない。

「人はそれぞれ寿命があり、
様々な状態を得て死を迎える」
そんな当たり前のことが、いざ死を目の前にすると分からなく無くなってしまうことは多い。

寿命は延命でうやむやになると思い、
死に向かう状態はいつまでも頑張れば改善されると思う。

いったいいつまで生きれば納得出来るのか。

死に向かう時、人はやっと本当に自分自身とその人生に向き合う準備をする。
あくまでも「準備」だ。「覚悟」ではないのが現実で。

準備だから、死の間際にもうあれこれ試行錯誤し始めてテンパる。
時間がない、と焦る。
で、とにかく延命して考える時間を作ろう。
そんな感じだ。

そして延命してる間に、体力も気力も消滅して
自分の死に際を自分で決めることすら出来ない状態になってしまい、
これまたテンパった家族が、右往左往しながら、
本人の意向よりも、家族の負担軽減をメインに
死に際の支援は形作られる。  

そして生きたいのか死にたいのか
生かしたいのかそうでないのか、
ブレブレで定まらない状態で支援は始まり、
その内容は、本人や家族の気分次第で次々と変わる。どうしたいのかさっぱりわからない。

いったいなんなんだ、この状態は?

支援をしながらいつも思う。

そのとっ散らかった家族の状態を整える促しをするのも仕事の一つではあるけれど。

あなたは生きたいのか、死にたいのか
あなたは生かせたいのか、死なせたいのか

本人に対しては、
あなたは生きたいならばどう生きたいのか?
今の自分の状態をどう捉えてどうしたいのか?
そこにはやれる事ともう無理な事が存在する。
それを自分に納得させる事が出来るだろうか?

家族に対しては、
あなたは生かしたければどう生かしたいのか?
家族の(親の)今の状態をどう捉えてどうしたいのか?
そこにはやれる事ともう無理な事が存在する。
家族が望む事と、本人が望む事は同じではない。
高齢者は、頑張れば改善するのにも限界がある。
50歳の人間が頑張るしんどさと、
80歳90歳の人間が頑張るしんどさは、はるかに違う事が本当に腑に落ちているのだろうか?
どこまで頑張らせれば納得出来るのだろうか?

生かしたいは愛でもあるけれど
生かしたいは自己愛でもある。

生きたいは当たり前の自己欲求だけど、
生き続けたいはいつまでなんだろう?

大事な人が目の前からいなくなる事が怖くて仕方がないことは、当たり前の事だけど
自分が先に死なない限り、
大事な人は目の前から居なくなり続けることの方が多い。

高齢者は当たり前に先に死ぬ。

やみくもに死を恐怖して生き続けたい、ではなく
どのように覚悟をしてどのように生を終えたいのか。

1日でも長く生かしたい、ではなく
どのように生かしてどのように死なせてやりたいか。

それを考えてみても良いのではないか。
本人も、娘も息子も、その子供達も。みんなで。
死ぬギリギリで慌てるのではなく、
元気なうちに。
死ぬ事について。死に方について。
いつだって、みんな死に向かってるのだから。
いつだって死ぬ事を考える。

そして本当に死が目の前に訪れたとき、
ああ、とうとう来たかと、
覚悟して挑むことが出来る人でいられるように。

そしてそのように在れることは、自分の人生を、自分の意思で生き切るためにとても大切で、とても幸せな事だろう。

そんな事を、支援をしながらいつも思うのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?