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すずめの戸締まり考察

常世(とこよ)、現世(うつしよ)、
過去も今も未来も同時並行、
マワリテメグル。

ネタバレネタしかない &
わたしの変態トンデモ考察に、
あなたの感動的な美しい感想を犯されたくないひとは、以降読まないでね警報発令🚨

ーー

どんな世代も楽しめるように、
若い男女の恋心を軸に描かれてはいるが・・・
一言でこの映画を表現するなら、

「古事記を現代風にしてみたらこうなった」

とわたしは感じた。

その前にまず・・・
同い年で団塊ジュニアの新海監督の、
素直な歳のとりかたに、心から共感したい。

彼は早生まれの49歳、同学年なのだ。
長野の小海出身。

映画みる前に配られる小冊子に書いてあった。

「いまの私にはもう、『君の名は。』のような恋愛ストーリーは書けない。」

そうだよ。監督だって歳を重ね、精神性が成長している。
そういったことを、彼の映画を通して、一緒に成長プロセスと立ち位置を確認させてもらっているかのような感覚になる心地よさが、同い年のわたしにはある。
※『君の名は。』以前の作品も全てわたしは観てる。

今回は月刊ムーが出てこなかったのも、監督の成長、卒業なのかもしれない。個人的には、ちと寂しさもあるがw、そういったイタズラを仕込むのは今回はヤボでしょ、といわんばかりで面白い。

が、宗像草太の親友の芹澤のスマホ(たぶんSpotify)から、斉藤由貴の「卒業」が流れてきたときは、
南野陽子より断然斉藤由貴ファンだった私としては、やはり新海クン(突如クン呼ばわり)はオレサマ寄りなんだな、同じ香りがするぜ、とニヤニヤした🤣。

そんな監督も、宮崎駿氏へのリスペクトだけはいくつになっても忘れない。
同じくドライブ中の芹澤のスマホから、ユーミンの「優しさに包まれたなら」が流れ、クロネコヤマトのトラックが隣を追い越すとき、観客は「魔女の宅急便」で勇敢に生きる魔女の見習いの少女キキを思い出したことだろう。

さて、
『君の名は。』『天気の子』の時もあった、
当人たちにしかわかりようのない「ビビビ」的な男女の恋心、ツインソウルか赤い糸のちからを漂わせるのは、今回も健在。うまいな。

ズバリ、恋心なんて、そんなもんだと思う。
「普通の恋愛」などこの世にはひとつもない。
さまざまなかたちがあり、二人にしかわからない物語があり、そこには根拠や理由、言葉にできるものなどない、奇跡のようなものだ。
それを、縁と呼ぶ。

縁結びの象徴として監督は赤い紐をよく使う。

すずめの制服のリボンが細すぎる。
『君の名は。』の三葉の髪結びの赤い組み紐くらい細い。赤い糸は細くて頼りないが、最後まで力強くそこにあるのだ。

しかし、その「愛のかたち」は、
今回の映画では、若い男女の恋愛レベルから、無償の愛とか、友情、血の繋がらない親子の愛、産土、この世の全てへの感謝といった次元のものに昇華している。

50歳になる新海監督も、天気の子あたりから“そっち”方面を表現したかったのだろうし、
コロナ禍が始まったあたりから考えた企画だっただけに、いよいよそれについて表現していこうと思ったのだろうと、わたしは感じた。

ーー

さて・・
なにが、
「古事記を現代風にしてみたらこうなった」
とおもったのかは、

ちょっと古事記かじった人ならわかるだろう。

まず主人公の高校生、岩戸すずめ。
彼女は、アメノウズメだ。

アメノウズメは天の岩戸伝説で、
暴れた弟スサノオノミコトにブチキレて岩戸に隠れてしまったアマテラスを、なんとか岩戸から引き出そうと、最も頑張った神様だ。

ヨロチクビ上等、アソコもモロ出しで、古事記では目を覆いたくなるような淫らで妖艶な舞いっぷりを見せる。
それを観た、岩戸の回りにいた困り果てた神々は、笑い転げまくった。

アマテラスが天の岩戸に隠れてしまったことは、神話の中では恐らく「初めての大災害」だっただろう。
太陽が隠れ世界は暗闇、作物も実らない、未来に不安しかない世界だったはずだ。

アメノウズメは、そんな状況を変えるべく、他の神々を大爆笑させるほどに全身全霊で躍り狂った、初めての巫女である。
(ウズメ=オズメ「強女」とも。)

監督がそこまで意識して仕込んだのかはわからないが、
この映画も、巨大な災害が次々にやってくるのをなんとか阻止しながら展開するどちらかといえばシリアスなストーリーなのに、爆笑ポイントがめいっぱいちりばめられ、映画館では笑いも耐えなかった。うまい!

神話ではその後、
自分(アマテラス)は岩戸に隠れているのに、外の世界がやけに楽しそうで不思議に思っていると、
「貴女様より素敵な女神が現れた」と言われて、なんですとー!と激嫉妬して、ちょこっと岩戸を開けたところを引っ張り出され・・この世に光と平和が戻ったわけだ。

ちなみにアメノウズメは人類初の巫女だけに、天皇家の祭祀を取り仕切る忌部氏系と言われるが、阿波忌部氏は四国の吉野川流域の発展を、“海部氏”と協力して達成したと言われる。

この映画のなかで、愛媛県ですずめは同い年の高校生と出会う。その、すずめを助けた女の子の名前は、“海部”ちか。
仕込みが細かいぞ新海監督!

そして、
アマテラスとアメノウズメが合せ鏡であるように、すずめはアマテラスでもあるだろう。

すずめは、幼少期に後ろ戸を開け、そこに魂が迷い込んでしまったままだったからだ。
(結果、すずめは自分自身でその過去に開いた後ろ戸の常世でのトラウマを解消し、自分の手でその後ろ戸を閉じるのだ。自ら過去と向き合い、昇華し、成長の道を拓く。)

※注:わかりやすいのであえて“トラウマ”と書いたが、わたしにとって大切なことだと思うので用心深く書くと、わたしは「消せるトラウマなどない」と思っている。
トラウマの意味を自分なりに理解し、それにすら感謝して、向き合って、受け止めて、自分の一部として抱きしめながら生きていくための、魂の成長のためのパーツだとおもう。
「トラウマの解消」とか言ってるワークショップは、違和感しかない。別の逃げる手段を身につける、魂の成長にとって遠回りなことだとわたしは感じている。
そのようなことをお金をとってやっているヒーラーさんこそ、自分のトラウマから逃げるために他人まで巻き込むほど必死なのだとおもう。そのようなものに巻き込まれては、自分のためにも相手のためにもならない。

さて次。
扉の閉じ師、宗像草太。
これはもう、宗像三女神の暗示でしょう。

田心姫神(タゴリヒメ)
湍津姫神(タギツヒメ)
市杵島姫神(イチキシマヒメ)

宗像大社、厳島神社、江ノ島神社、などに祀られている。

イチキシマヒメが弁財天にも比定されたり、
三女神まとめて瀬織津姫と同神とする説もあるためか、映画では、ミミズを鎮めれば雨が降るし、終始、流れる景色には海がある。
ヒミズとは、日と水だ。

宗像三女神について書きすぎると終わらないので、超ざっくりいうと、
姉アマテラスと、弟スサノオノミコトの契約から埋まれた三姉妹の神だ。

この三女神は、アマテラスから「歴代の天皇を助けよ」との命を受けた神々だ。

宗像草太は途中、ネコのダイジンに、すずめの母親の形見のイスに姿を変えられてしまうが、
三女神の使命を知っていれば、
あれは「呪い」ではなく、「使命」を受けたのだと解釈できる。

だから、形見のイスは、3本足しかない。
三姉妹=三柱、の暗示だ。

次に、物語のキーワードとなる要石。
千葉の香取神宮、
茨城の鹿島神宮に、実在する。
大地震をおこすナマズの頭と尾を、この2ヵ所の要石で押さえ、静めているとされる。

映画では、ナマズ→産土の荒魂「ミミズ」との設定だ。
すでに起きてしまった熊本の震災、阪神淡路大震災、東日本大震災から、要石が必要な場所=ミミズが暴れる場所は、時代と共に変わる、との設定になっている。

そして、すずめたちは、
九州から東北へ向け、災いの扉を閉じながら、
“まるで神武東征”のごとく、東へ東へ向かい、
大地震を防いでいく。
※神武東征も目的は国の安定のため。

ラストシーンは、
あまりにもさまざまな災害やパンデミック、紛争が起きるこの現世(うつしよ)で、
人々が記憶から忘れてしまいそうな、風化してしまいそうな3.11のあの現場。

わたしも震災後すぐに行ってきた、
海に飲み込まれた生々しい宮城、福島を見た記憶、その場の臭いと、なんともいえない雲の重さ、空気の重圧がフラッシュバックした。

3.11で、母を亡くしたすずめと草太は、
そこに津波以前に確かにあった、多くの人々の愛ある日常にこころを寄り添わせながら、産土への感謝を封印の祝詞に込めながら、改めて2つの要石で巨大ミミズを封印する。

これ、「護国」そのものだ。

この映画で新海監督が伝えたかったであろうことは、

われわれは、ひとりひとりが、かけがえのない神様だということ。

古事記の時代に生きた神々と、なにも変わらないんだよ、ということ。

時代は違えど、古事記に生きたヤオヨロズの神々だって、一人一人はえらく人間臭くてポンコツで、一人では何もできなかった。
しかし、愛する人への想いの力、ご縁、友や親子にちからを借りながら、それぞれが成すべきことをやってのけてきたからこそ、

今がここにあるわけだ。

神道の道しるべに、「中今」「弥栄」があるのはまさにそれを、千代に八千代に(永遠に)後世に伝えるため。

古事記の時代から、いまのわたしたちに脈々と繋がれ、祷り託されている。

2000年後の未来の古事記改訂版には、いまのわたしたちがヤオヨロズの神々として、名前を連ねるのだろう。

宗像草太は、とても窮屈で身動きの取りづらいイスに変えられた。
これは、いまの閉塞感漂う「社会」だったり、
自由の制限された「環境」だったり、
病気、経済状況などの「個人の生活」の窮屈さを表しているのかもしれない。

それでも草太は、
その姿になんとか意思を馴染ませ、
三本足しかない不自由なイスの格好で、
大切な人を守るため、自らの使命を果たすために、走り回り、飛び回る。

そして、
すずめも草太も、同じことをいう。

いのちなど惜しくない。常世(黄泉の国。あの世。)など怖くない。

すずめと別れることのほうが、
草太のいない世界を生きることのほうが、
よっぽど怖い。

だからこそ、いまを、1分1秒でも長く、感謝して生き抜きたいと。

結果すずめは、
多くの人に助けてもらいながら、
自らの力で、自分の過去と向き合い、
自らの手で開けた扉を、自らの手で閉じる。

過去の事実は変えられないが、
過去の解釈は、向き合うことで変えられる。
その自分の問題解決が、護国や世界の平和に直結する。

現代のわたしたち一人一人も、
この問題だらけの社会システムや他人のせいにしつづけて、
ひねくれて、腐った想念をかもしだしてミミズの一部になるのではなく、
日々を全力で生き抜いて、個々人自らの手で輝きながら魂を磨いていこう、

それが、

問題の一部であり続けるのではなく、
解決の一部となるということだ、

というメッセージだと、わたしは受け止めた。

問題の一部であり続けるのではなく、解決の一部でありたいと思っています。