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原点は存在する ー 詩人 谷川雁の思想

もし、詩人の創り出す言葉に言霊があるとすれば、間違いなくその詩人の詩は思春期の私のうちにも突き刺さった。

難解なメタファーに翻弄されながらも、私は詩という表現の中にある痛快さにしんから心打たれたのである。

それが谷川雁である。

谷川雁はその詩「東京へ行くな」でこう宣言する。


ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
おれはみつけた 水仙いろした泥の都
波のようにやさしく奇怪な発音で
馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ

つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

おれたちのしりをひやす苔の客間に
船乗り 百姓 旋盤工 抗夫をまねけ
かぞえきれぬ恥辱 ひとの眼つき
それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

駈けてゆくひずめの内側なのだ


個人的な話だが、私は生粋の労働者一族の出自である。
祖父も父も叔父もみな地方の片田舎の炭鉱夫であり、私はそんな境遇に一定の安堵感を持ちながらも、煤煙にくすぶった町をどうしても自分の魂の拠り所には出来なかった。希望の持てない故郷に愛想をつかしていた。
何処かに飛び出していきたい、それが切実な思いだった。そんな時、この詩に出会ったのである。

その詩を発表して間もなく、1958年夏、谷川雁は宣言通り、東京へは行かず、詩誌「母音」を通して知り合った森崎和江を伴って、筑豊に移り住む。
この頃のことを後にこう語っている。

「東京へ行くな、と僕が呼びかけたのは政治スローガンよりももっとなまな叫びなのだ。なぜなら出発の前にすでに敗北している道よりも百人に一人が真の生活を発見する道へとさそうことが必要だから」

それでは谷川雁が理想とする場所は何処にあり、どう生きるのか?
彼はそこで九州全域と山口県の文化サークル交流誌「サークル村」を刊行する。
彼と志向を共有する仲間がそこに集まった。
谷川雁、森崎和江、上野英信、石牟礼道子・・・・
谷川雁はそれ以前にも重要なメッセージを残している。
そこにサークル村への意図が表れている

「世界の映像を裏返さないかぎり永久に現実を裏返すことはできない。イメージからさきに変れ!これが原点の力学である」
「感性のコンミューン権力を現実より一足先にうちたてよう」

谷川雁にとっての革命とは、何よりも「命をあらためる」という意味での革命である。
そのためには、文化革命、教育革命、精神革命を遂行する基礎単位としてのサークルの組織化であり、その横断的連合作りだった・・・。


だが、私が谷川雁の世界に出会ったのはリアルタイムではない。
大江健三郎風に言えば、私は確かに「遅れてきた青年」であり、谷川雁が打ち立てた旗がことごとく、その後、脆くも崩れ去ることも知っていた。

それでも谷川雁の詩のパッションは私のこころの深奥を貫き、彼と親しむ森崎和江や上野英信や石牟礼道子の思想や生き方は、私の価値観形成の手立てとなった。

私も東京へは行かなかった・・・。

それから時が経ち、社会の荒波にもまれ私は庶民としての分別を身に着け、変わっていった。

谷川雁は逝き、時代もいつも何らかの違和感を含みながらも、変化した。

私自身もいつしか谷川雁を忘れ、いつも何らかの違和感を感じながら、生き、年を取った。  

そうして、ふと、彼を思い出したのが、コロナ禍が明けて、世間が元の状態に戻ったと言われ、今までの閉塞感を吹き飛ばすかのように、イベントだ、旅行だ、と人々が活動を始めた頃である。

私の違和感は極限に達したようである。

世間はどうあれ、ここを機に、自分の人生の中で、初心に戻ろうと、漠然とそう思ったのである。  

世阿弥は、その人の年齢に応じて、初心があるといったが、谷川雁は、原点が存在する、と、確固たるメッセージを残している。

谷川雁は詩人である。
その一方で、1960年代に生きた人々には、吉本隆明と並ぶカリスマ思想家であり、比類なき革命家であった。

谷川雁のメッセージである「連帯を求めて孤立を恐れず」が全共闘世代に親しまれていたのは有名である。
また一方で、安保闘争、三池闘争の敗北以降も労働者たちを牽引した工作者でもあった。

原点は存在するは、彼がまだ世間に知られる以前、1954年に詩誌「母音」に掲載されたものである。

「段々降りていくよりほかないのだ。下部へ、下部へ、根へ、根へ・・・そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギーがある」

谷川雁はそう言った。
彼の目指す原点とは何処にあるのか?彼は何処へ行こうとしていたのか?

実は、「原点は存在する」の中で、谷川雁が示した思想は、その後時代の変化の中のいくつかの場面で現れた。

高度成長期、水俣病をはじめとする公害問題が顕著になった頃、大分の作家、松下竜一は発電所建設反対運動に携わる中で、「暗闇の思想」を打ち出した。

「何も反対運動をしてるからって、電気をみんなやめて、原始時代に戻ろうと言うのじゃない。便利さを追求して何かを犠牲にするのはやめて、少しだけ我慢して少しだけ後戻りしてもいいんじゃないかと思ってる」

本当の豊かさとは何なのか?

誰かを、何かを犠牲にしてまで得られる豊かさに疑問を持ったうえでの結論だ。

後日、東日本大震災、福島原発事故。

未曾有の出来事を目の当たりにして、作家、五木寛之は、「下山の思想」を表明した。
行き過ぎたテクノロジーを危ぶみ、自然を意のままにしようとした人間中心主義に疑問持ち、経済優先を旗頭に、ここでも何かの犠牲をもとに発展していく現代社会に警鐘をならした。

そしてまたコロナ禍を経て、世界はまた新たな決断を迫られている・・・。

「下山とは諦めの行動ではなく新たな山頂に登る前のプロセスだ」

五木の言葉にはかつて「暗闇の思想」を掲げて公害社会の行く末に警鐘をならしながらも結果的に抹殺された松下竜一の無念の思いを引き継ぎ、それはまた、それ以前に真の人間性を取り戻すべく過激なメッセージを発し続けた谷川雁の「原点は存在する」へと繋がっていく。

人は皆、道の途上で振り返り、後戻りするには大きな勇気が必要となるかもしれない。しかし今こそそれを決断する時なのだと、そう感じている。

私は、混沌とした現代だからこそ、かつて詩人、谷川雁が残した言葉をたくさんの人に噛みしめて欲しいと願う。
そこには現代社会になにがしかの違和感をもちながらも、自分自身の真の人生を追い求める真摯な人への生きるヒントがあるのかもしれない。

一介の無名の人間が声高に騒いでも、すぐに未来が変わるものではないが、無名でもそれが多く集まれば有力にはなるはずだ。
そう信じている。

最後に、谷川雁が下部へ、下部へ、根へ、根へと目指した原点はどこにあるのか、その手掛かりになる初期の詩を上げて終わりにする。

詩人であり、思想家であり、革命家であり、工作者であった彼の筑豊の家の書棚には、マルクスやトロツキーの本に混じって、柳田国男や折口信夫の本が数多くあったという・・・象徴的な話だ・・・。夢破れて、言葉とは裏腹に中央に出てからも、宮沢賢治を中心として、言葉について追い求めたその後の人生も含めて・・・。


雲よ
                     谷川雁

雲がゆく
おれもゆく
アジアのうちにどこか
さびしくてにぎやかで
馬車も食堂も景色も泥くさいが
ゆったりしたところはないか
どっしりした男が 五六人
おおきな手をひろげて 
話をする
そんなところはないか
雲よ
むろんおれは貧乏だが
いいじゃないか
つれていけよ

ここには彼独特のメタファーも意匠もほどこされていないが、この詩は私の心の一番柔らかい所に突き刺さってくる。

雲に乗って、失った何かを取り戻すために、自分の原点へと向かう自分の姿さえ想像できるのだ・・・。














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