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名前入りのホールケーキを、ずっと一緒に食べたかった

父が再婚してから生まれた弟妹たちの誕生日には、名前入りのオーダーケーキが毎年冷蔵庫の中に入っていた。

大きな白い箱に入った、2人の子供たちがそれぞれに好きそうな色味とデザインのケーキ。カラフルで、派手で、大きくて。それは今でも続いているらしい。


私はもうその光景を見ずに済む。
幸せを、見ずに済む。
見ずに済むように家を出たのが18歳の私だった。




父が再婚してから、はじめての私の誕生日。

まっしろな生クリームに包まれたケーキだった。
その夜にテーブルを囲んだのは、父と、父の膝の上に生まれたばかりの半分だけ血の繋がる弟、隣にはその子の母親でもある父の再婚相手、それと私。

なにも、すこしも、これっぽっちも、嬉しくなかった。

どうしてここにいるのが、私のお母さんや私の弟ではないのだろう。どうして私の名前を呼んでくれるお母さんがいないのだろう。そんなことばかり、考えていた。


ケーキを用意してもらえただけ、祝ってもらえるだけ、幸せだと思わなくちゃいけないかな。

ここで自分の感情をむき出しにして嫌われてしまったら、家に住むことができなくなるんじゃないか、居場所がなくなるんじゃないかと子供ながらに思ったから、うれしそうな顔をしたし、「ありがとう」と言って喜んだ。



だけど結局、このケーキが最後だったと記憶している。
正直、この人たちと同じ家でどう過ごしていたのかあまり記憶にない。このケーキだって、写真がなければ思い出すこともなかった。


徐々に同じテーブルでご飯を食べることも、リビングで会話をすることさえもなくなった。私は自分の部屋に閉じこもっていたし、廊下や玄関ですれ違うことも、顔を合わせることも嫌だった。

父はそんな私をわがままだと言っていたし、私に寄り添うことは1ミリもしてくれなかった。扉の向こうからは家族の楽しい声がいつでも聞こえていた。

私には、お父さんとの時間が必要だった。
向き合って欲しかった。私を見て欲しかった。
誕生日に別の子どもを膝の上に乗せて「おめでとう」なんて、私に言って欲しくなかったんだよ。




「名前入りのホールケーキを一緒に食べたかった」

当時の友達にぽつりと呟くように言ったのは、
中学3年生になった私だった。


大きくなくていい、カラフルじゃなくていい、派手じゃなくていい。一年で一度だけ。私の名前が書かれた特別なケーキを、あれこれ言いながら一緒に食べてくれる私の家族が居続けて欲しかった。

きっと、私の誕生日なのに弟が火を消しちゃったり、それに私は怒ったり、何年後かには「消したい?」なんて聞けるぐらい大人になって弟のことを微笑ましく思えるようになったり、カットしたケーキの大きさで揉めることもなくなって、チョコの部分をぱきっと割って譲ることもできたり、ケーキを通して成長を感じて、いつか弟にいつも通り譲ろうとしたときには「このケーキは姉ちゃんのだからいいよ」なんて言われたのかな。

いくつ歳を重ねても、みんなで「美味しいね」って、それだけは変わらずに言い合えたのかな。


もう二度と訪れない特別な日を想像しては、いつだって涙が出た。私が味わうことのできない幸せを、喉から手が出るほど欲しい幸せを、目の前で当たり前のように重ね続けるお父さんたち家族が羨ましかった。

私がいなければここは家族なんだなぁと感じたから、
私は家を出ることにした。
私に特別な日はもう必要ないと思った。




それなのに私の大切な友達2人が、
私の誕生日を現在進行形で特別にし続けてくれている。


17歳。
家にいたら突然インターホンが鳴って、家から連れ出してくれた。ご飯を食べていたらディズニーのチケットが出てきて、「一緒に行こう!」とプレゼントしてくれた。


18歳。
私たちの思い出をまとめたアルバムを作ってくれて、私の好きなご飯屋さんに連れて行ってくれた。


19歳。
一人暮らしをしてはじめての誕生日。ご飯を食べたあと、誕生日プレートと欲しかったコスメをプレゼントしてくれた。



そして、20歳。
ご飯に連れて行ってくれて、誕生日プレートとプレゼントをもらったあとに私の家に3人で帰ったら、突然ホールケーキが出てきた。本当に、びっくりした。

ここだけの話、写真を撮るために2人に背を向けていたけど、本当は涙を堪えるためだった。あと1回でも瞬きをしたら、ぼろぼろに泣いてしまいそうだった。

ホールケーキが、名前入りのケーキが、ずっと家族と食べたかった。分け合って、笑い合いたかった。もう叶わないと思っていたその日が、形を変えて訪れた特別な1日。特別なケーキ。2人は覚えていてくれた。
あの日あのとき、あの時間を、私は絶対に忘れない。




あれから5年以上が経って、社会人になってからはそれぞれの生活スタイルが変わって昔よりも会うことは簡単ではなくなった。

それでも欠かさず連絡をくれて祝い続けてくれる2人がいる。


去年だって家にいたら突然21時過ぎにインターホンが鳴って、モニターにはニヤニヤしている2人が映っていた。そしてまた私に、名前入りのホールケーキをプレゼントしてくれた。

あれこれ言いながら、みんなでわいわいとケーキを三等分にして、私のお皿にはいちごがたっぷり乗っていて、名前の書かれたチョコが付いていて、それを一緒に食べてくれるこの時間が、私にとって本当に本当に特別で、幸せだった。

きっと2人はそのことを、出会ってからの10年以上で誰よりも理解してくれているのだと思う。




誕生日やケーキを通して生まれた会話に詰まっている、
特別なその幸せがずっと欲しかった。


私にはもう、お父さんやお母さん、弟とテーブルを囲んでケーキを分け合える日は二度と来ない。どれだけ願っても、私の何を差し出しても、もうあの頃には戻ることができなくて、この先の未来に訪れることもない。

それを頭では理解しているのに、いつも心は受け入れることができなかった。だから誕生日が嫌いだった。誕生月はいつも憂鬱だった。今でも、それは変わらずに。

誕生日を特別な日にしないように、学生時代はバイトは変わらず入れていたし、社会人になってからも希望休を取ることはなかった。人に誕生日を知られたくないから、snsに誕生日関連のことは投稿しないし、ラインに誕生日を登録することもなかった。


それでも私の大切な人たちは、そんな私を否定することなく待っていてくれるかのように、仕事帰りで遅くなったときでも家まで会いに来てくれる。

特別にしたくないと目を背ける私に、「お誕生日おめでとう」とまっすぐな言葉をプレゼントし続けてくれる。


そんなみんなのおかげで、また一つ歳を重ねることができる。




そして、お母さん。元気にしてる?

お母さんと過ごした10年にも満たない日々が、私にとってはやっぱり何にも変えることができない特別な時間みたい。

記憶が薄れていってしまっても、あの頃に感じた幸せにはどれも敵いそうにないよ。私にはお母さんがいてくれたら、家族がいてくれたら、本当にそれだけで良かった。そう思ってしまうほどに、母親の愛情はどこまでも深くて壮大で温かいんだね。


そんな記憶を大切に心に閉じ込めて、
またこの1年を必死に生きていきます。






p.s. 今年の誕生日についてのはなしを、後日談として。
  今年も2人は最高に私を想ってくれて、
  本当に自慢の友達です。


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