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1、ディスクガイドZINE「SOMETHING ON MY MIND #1 for note」サニーデイ・サービス特集

本コンテンツは、2016年に作成し、渋谷タワーレコード内の期間限定ショップ「パイドパイパーハウス」や池袋ココナッツディスク、新宿ディスクユニオン&ブックユニオンなどで販売をしたZINE「SOMETHING ON MY MIND (NO.1)」の内容をnote用に変換したものになります。

印刷版では、当時の広告画像や目次などを含めて、52ページありました。今回はその一部を無料版にして、残りを有料版として、さらにZINEには記載していない文章もほんの少しだけ追記しています。

ZINEの販売開始当初から、多くの地方在住の音楽ファンからは通販の要望をいただいていていましたが基本的には手間や個人情報を取り扱うことの懸念からお断りさせていただいておりました。さらに、今回ZINEがほぼ売り切れてしまったことで、デジタルでの販売の要望を多数いただきましたので、当初予定がなかったnoteでの有料販売にチャレンジしてみることにいたしました。

コンテンツ概要は以下になります。
ご興味をお持ちいただけましたら有料版もご利用くださいませ。

1  WOULDN’T IT BE NICE - まえがき(無料)

2  LITTLE BOOK ABOUT “YOUNG PEOPLE”(無料)
個人の体験記を元にした、サニーデイ・サービスのバイオグラフィー代わりになるような読み物です。(約4600文字)

3  ALL THE YOUNG PUNKS - Sunny Day Service Discography(一部無料)
アルバムごとに、メンバーの当時と数年後の発言を読みながら作品がどういう状況で作られたかを知ることが出来ます。

└若者たち(無料;約1600文字)

--- これ以降は有料版でお読みください ---

└東京(約1600文字)
└愛と笑いの夜(約1600文字)
└サニーデイ・サービス(約1600文字)
└24時(約1600文字)
└MUGEN(約1600文字)
└LOVE ALBUM(約1600文字)

└オリジナルアルバム以外のライブ盤、全シングル、ベスト盤、参加作品、ソロ作品などのディスクガイド(400文字*12枚 100文字*29枚)

4  THIS IS THE ONE - 90’s FOLKIE & CITY POP DISC GUIDE
サニーデイの流れで聴ける邦楽のディスクガイドで、90年代後半のフォーキー&シティポップを中心に、70年代の名盤も少し加えて118枚を紹介しています。
 約400文字*10枚
 約200文字*108枚

5  コラム「コーヒーとマシンガン」
サニーデイ・サービスとフリッパーズ・ギターの違いについて。(約600文字)

6  コラム「Harmony in my head」
サニーデイの音楽のルーツとなっている洋楽を少しだけご紹介。(約1900文字)

7  あとがき

8  BONUS TRACK:「サニーデイ・サービスファンにつけるブログ」
2005年当時のブログの記事になります。ZINEに載っていない文章で、今回のnoteのみで公開。2の「LITTLE BOOK ABOUT “YOUNG PEOPLE”」の元になっているので、音楽で言うとデモ音源みたいなものでしょうか。

コンテンツ概要は以上になります。

--- ここから本編です ---


WOULDN’T IT BE NICE - まえがき

90年代の半ば、当時の感覚であってもはっぴいえんどやシュガーベイブが存在した70年代は神話ののように大昔のことに思えました。その90年代にも、あっという間に20年の時が過ぎて、90年代から見た70年代への距離と同じだけの時間が経過しました。この2010年代の若者たちから見た90年代は、僕が感じた70年代のような存在なのだろうか。

90年代後半、ワーナーの名盤探検隊シリーズで当時の若者たちが70年代の英米の名盤を発見できたように、90年代のアルバムも現代の若者たちに発見されて欲しいという思いからこの本を作ろうと考えました。具体的には、サニーデイ・サービス、benzoそして、The Changの存在が大きかったです。ただの音楽好きから彼らの名作を少しだけ紹介させて下さい。

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LITTLE BOOK ABOUT “YOUNG PEOPLE”


ある若者の青春狂走曲

1994年、その少年は片田舎に住む高校3年生だった。少年は中学生の頃からフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴ、オリジナルラブ、電気グルーヴなどが好きだった。高校に入った頃から少年はフリッパーズの元ネタとなっていたような洋楽を少しずつ聴き始め、受験勉強をしながら「大学に入ったらフリッパーズみたいなネオアコバンドをやろう」と夢想していた。

その少年の高校3年間は、フリッパーズが解散した後の1992年から1994年あたりと重なり、いわゆる「渋谷系」と形容されるアーティストが雨後の筍のように現れていた時期だった。ブリッジ(カジヒデキが在籍したネオアコバンド)やヴィーナス・ペーターなどのフリッパーズ人脈は歓迎していたが、それ以外のグループに対しては嫌悪感を抱いていた。

特にフリッパーズやピチカートを明らかに意識したと思われる若いグループは多かったが、彼らは雑誌のインタビューでフリッパーズからの影響を口に出さずにいることが多かったので、少年はその姿勢がしらばっくれているように感じられて格好悪いと思っていた。自分だったらフリッパーズに影響を受けたことを恥じることもなく素直に認めるのに。

ある日少年は学校帰りに書店で「ロッキング・オン・ジャパン」を立ち読みした。そこには遅れて来た新しいフリッパーズフォロワーが紹介されていた。「サニーデイ・サービス」という「いかにも」なバンド名だった。ただ、他のフリッパーズ・フォロワーと違ったのは、ひねくれて諦めたような態度をとっているくせに、フリッパーズからの影響を隠さない正直な姿勢だった。でも、だからと言ってそのバンドに興味は持てなかった。聴く必要はないと思った。

その後少年は小沢健二やストーン・ローゼス、プライマル・スクリーム、BECK、ギターポップ、数年遅れのマンチェ、シューゲイザー、アシッドジャズ、ローファイなどを聴きながらなんとか退屈な高校生活を終えた。

1995年4月、東京の大学に入った少年はあのサニーデイ・サービスというバンドの雰囲気が変わったことに気づいた。1995年4月に発表された彼らのメジャーデビューアルバム「若者たち」は、それまでのフリッパーズ的な趣向から、はっぴいえんどやシュガーベイブなどの1970年代の日本のロックを下敷きにしたような音楽性に変わっていた。

フリッパーズ・ギターを解散した後、1993年にソロ・デビューアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」を発表した小沢健二がその時期に傾倒していたのがまさにそういった70年代の邦楽アーティストだった。
少年はサニーデイ・サービスのその転向ぶりに「フリッパーズの次は小沢健二の後を着いて行くのかこのバンドは・・・」と呆れた。また、その時々で音楽性を変える器用さに、彼らの曲を聴いてもいないのに薄っぺらさを感じた。

大学生になって初めての夏休みに入ろうとしていた1995年7月、音楽サークルで知り合って仲良くなった3歳年上の先輩が「サニーデイの新曲のプロモ(ビデオ)がすげーいい感じだよ」と録画したビデオを見せてくれた。映像の中には、普段着で冴えない感じの若者が映っていた。ヴォーカルはハモンドオルガンが鳴り響く中で終始つまらなそうに歌っていた。

少年は「ちょっと格好いいかも・・・」と思いながらも、まだバンドに対しては半信半疑の気持ちだった。それでもハモンドオルガンの心地よさに浸りたくなって、先輩との音楽談義で徹夜した帰りにそのシングル「青春狂走曲」を買った。

その夏、田舎に帰省した少年は「青春狂走曲」を繰り返し聴いていた。そのうち、どうしてもこのバンドの他の曲が気になってしまい、アルバム「若者たち」とそれ以前に発表されたCDを買ってしまった。

故郷での夏休みを過ごして東京に戻った少年は「若者たち」の世界観が気になって、廉価で買いやすかったこともあり、はっぴいえんどや金延幸子やHOSONO HOUSEなどを手に入れて聴き始めていた。

1995年11月に発表されたシングル「恋におちたら」を聴いて、半信半疑だった少年のバンドへの気持ちは確信に変わった。田中貴のメロディアスで落ち着いているベース、間を活かした丸山晴茂のリズム、ヴォーカル・ギターの曽我部の声、そして文学的な歌詞。自分の日常に音楽が入り込んで来て、「町」が「街」になり、「花」が鮮やかになって、街の風景がそれまでとは違って見えるようになった。それはフリッパーズに感じた憧れとは違うものだった。

1996年2月、少年は待ちこがれていたサニーデイの二作目となるアルバム「東京」を手に入れた。池袋のヴァージンメガストアから急いで家に帰り、ドキドキしながら聴いていると、あの先輩から電話がかかってきた。電話口でアルバムの中の「会いたかった少女」と「あじさい」を1コーラスずつ聴かせると、興奮して「すげー、ネオアコじゃん!」と言った。

少年はその頃、ジャニスというレンタルCDショップ(一般のレンタル店には決して置いていないようなCDが借りられる。昔は貸しレコード屋で若き日の小山田圭吾なども通っていた)や楽器店、ディスクユニオンを巡るために頻繁に御茶の水に足を運んでいたので、ウォークマンを聴きながら歩いた神田川にかかる聖橋やJR中央線の駅のホームなどの風景ととてもよく合った「東京」の楽曲は文字通り、少年にとっての東京の早春をスケッチしたアルバムとなった。

アルバム「東京」をきっかけに、「フォーキー」なテイストのアルバムやアーティストが無駄に増えた気がした。そんな流れと一緒にされたくなかったのか、7月に発表したシングル「ここで逢いましょう」はそれまでのきれいなフォークロックから一転、原始的なガレージロックだった。

さらに、1996年10月に発表されたシングル「サマーソルジャー」はバンドとしては自信作だったようだが、二十歳を迎え少年から青年になった彼にはピンとこなかった。年が明けた1997年1月に発表されたサードアルバム「愛と笑いの夜」は歪んだギターが増えて内向的で暗い印象だったが、青年は「東京」よりも愛聴した。「サマーソルジャー」もシングルとは違って聴こえ、曽我部の歌がすんなりと耳に入って来てやっとその素晴らしさを感じることが出来た。この頃には青年のフリッパーズに対する憧れはなくなっていた。

1997年はテレビCMからサニーデイの曲が聞こえてくる機会も増えて、バンドの勢いを感じた。「愛と笑いの夜」からわずか9ヶ月後の1997年10月には、4枚目のアルバム「サニーデイ・サービス」がリリースされた。青年は冒頭の「baby blue」の間奏のドラムとベースの絡みを聴いてまたもこのバンドに感動させられた。

1998年の東京はとても暑かった。サニーデイは5月に「さよなら!街の恋人たち」というタイトルのシングルを発表した。サニーデイ・フォロワーが考えそうな安易なタイトルで、バンドは精彩を欠いているように見えた。青年の友人の一人が「これで終わりじゃない?」と予言した。青年もそんな気がした。その年の7月に発表された5枚目のアルバム「24時」は特に暑かったこの夏と、就職活動をしていた青年の気怠さにはぴったりだった。

1999年、青年は会社員という職業には就かずに無事だった。秋には兄弟との共同生活を終えて世田谷で初めての一人暮らしを始めた。10月に発表された6枚目のアルバム「MUGEN」は一人暮らしになって感じた秋のさみしさと豊かさをきれいに彩ってくれた。

ただ、真珠色のCDジャケットと同じくらい美しい内容には諦念が溢れていて、青年は今度こそバンドの終わりを確信した。そして、10曲目の「夢見るようなくちびるに」の歌詞のように「ぼくも早く大人になりたい」とも思った。

結局、青年の予想は外れた。バンドは2000年5月にシングル「夜のメロディ」を発表。青年はサニーデイの曲にはもう慣れていたので、「夜のメロディ」にも大きな期待はしていなかった。ところがまるで初めて「青春狂走曲」や「恋におちたら」を聴いた時のように感動した。これまでに何度も感動させられたバンドに「今さら感動しないだろう」と思っていたのに。

直後に新宿のタワーレコードでヴォーカルの曽我部を見かけたのでその感想を伝えると、曽我部は「良かったな〜、お前」と隣にいたディレクターの渡邊の肩を叩いた。照れを誤摩化しているように見えた。小柄な渡邊は「次の曲はススムヨコタさんにリミックスしてもらうんですよ」と教えてくれた。

バンドは2000年7月にシングル「魔法」、9月に7枚目のアルバム「LOVE ALBUM」を発表した。このアルバムは、ロックバンドがハウスミュージックを取り入れた手法で作られていて、青年が高校生の頃に、2年遅れながら熱心に聴いていた英国のバンド、プライマル・スクリームの名盤「スクリーマデリカ」を想起させた。青年は「若者たち」以前にやっていた音楽に対する落とし前を付けようとしているのではないかと邪推した。

中でも「魔法」は日本語で歌われる洗練されたパーカッシヴなハウスミュージックで、プライマル・スクリームの名曲「Come Together」や、それを下敷きにしたフリッパーズの名曲「Groove Tube」を越えるような名曲だと思った。前々作あたりから勝手に危惧をしていたバンドの存続については、アルバムの最後に配置されている「WILD WILD PARTY」を聴いて、バンドというパーティーを続けようとしているみたいだから大丈夫だろうと思った。

またしても青年の予想は外れた。その年の12月にバンドは突然解散した。理由ははっきりしなかったが、曽我部はその時点でバンドとしてやりきったと考えたのだろう。そして、同じ事を繰り返すようなバンドにしたくなかったのだろう。青年はそんな蒼いロック的な理由だと考えた。

バンドの遺作となった初のライブ盤「FUTURE KISS」は2000年12月に発表された。ライブ音源といっても、その年の7月に都内の幼稚園で行なわれたアコースティックセットのミニライブで、オーディエンスは幼稚園児。子供たちのはしゃぐ声、優しく話しかける「そかべお兄さん」。

青年はこんなに軽いライブ盤を聴いた事がなかった。ライブは「いつだってぼくは道間違って 見当はずれの場所にたどりつく」という歌い出しの「NOW」で終わっている。

アルバムタイトルの「未来のキス」は、子供たち、ファン、そして曽我部が大切にしていたサニーデイ・サービスというバンドに捧げられているのだろう。

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「NOW」という後日談
2008年の夏にサニーデイは突然再結成をした。青年にはあまり感慨はなかった。「へぇ、再結成したんだ? 思ったよりも早く再結成したなぁ」と思っただけだった。2000年の解散を知った時も、青年には他にもたくさん聴きたい音楽があったからサニーデイ解散による喪失感はなかった。センチメンタルな湿っぽい感情もなかった。

むしろ再結成から数年後に、バンドの成長期と自分の青年期がシンクロしていたことに気付いて「いいバンドだったなぁ」と感傷的に思った。

青年は人並みに人生の辛酸をなめて少しだけ大人になった今でも、サニーデイが出す新曲やアルバム、そしてたまのライブを楽しんでいる。

バンドも自分も年齢を重ねているので、もう昔と同じではないのは分かっている。バンドの「今」の音楽を、自分の「今」の生活の中で気楽に聴いて楽しんでいる。ありがとう、サニーデイ。


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All the Young Punks

サニーデイはいつからか「きれいな」「懐かしい」「あたたかい」「やわらかい」「フォーク」といったキーワードだけで語られている気がして違和感を覚えていました。「それだけじゃないんだけど…」

名盤「東京」のイメージが強すぎたことや、2000年に解散したことで音楽だけが残ったので仕方がないかもしれません。余計な情報を持たずに純粋に音楽だけを聴いた方が全ての音楽に対して平等で、聴き方としては正しいかもしれません。正論ではありますが、そのレコードにどんな思いが込められていたのか、どんな状況で作られたのかを知ると、もっと深くその作品を楽しめるのではないでしょうか。

そのためにアルバムについては、第三者の客観的な文章や持論を排除して、作者であるミュージシャン本人の当時のインタビューでの発言の引用を中心に構成しています。音源だけでは分からないサニーデイの制作の背景やバンドの魅力を再発見していただければさいわいです。

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若者たち(1995年4月21日発売)

曽我部恵一、田中貴、丸山晴茂というメンバーが揃い、フォークロックという音楽の軸が固まったメジャーデビューアルバム。これ以前の「遅れて来たフリッパーズ・フォロワー」的だった音楽性が、突然70年代っぽい雰囲気のフォークに変わったので多くの人は困惑しました。

当時の「ロッキン・オン・ジャパン」でも、「いかにもアフター・フリッパーズ的に次の『音楽を作る際のネタ』を見つけて作った一枚。こんなもん作るんじゃないB級のくせに。(でも)困った事にとても良いのだこれが」(音楽ライター兵庫慎司さん・1995年)という、どう受け止めればいいのか戸惑いつつも期待が込められたようなディスク・レビューが載っていました。

当時のインタビューで曽我部は制作時の心情をこう語っています。

「まあ、最初はたしかに狙おうと思って『次は四畳半フォークです』なんて言ってたけど、それもダサいかなーと思って。だんだん素直になっていった。とにかく、いいものを作りたかったんです。10年後に、今の僕らと同じくらいの年齢の若い人が聞いても同じような感覚で聴けるものを残したかった」(曽我部・1995年)

大きく路線変更した理由は、憧れの対象と現実の距離を受け止めたことだったようです。

「フリッパーズ・ギターを聴くといつも俺は救われた気持ちになってたんだよ。彼らの作る音楽って、俺みたいな田舎出身の若者に、凄く夢を見させてくれたと思うんだよね。でも、いざ曲を作り始めると、自分の中にフリッパーズ的な要素がまったくないっていうことに気付かされてしまうわけ。

で、そういう悶々として気持ちを引きずったまま、大学の夏休みに香川の実家に帰って、和室でギターを弾いているときにできたのが『いつもだれかに』っていう曲で。フリッパーズの呪縛からくる被害妄想的な自分をはっきりと認識した瞬間に、それが曲として成立しちゃったんだよね。

才能もないし、お洒落でもない自分自身に対する鬱屈とした気持ちが、(『いつもだれかに』に)そのまま出てると思う。でも、この曲が出来たことでによって、そのあと一気に曲が書けるようになったんだよ。自分のことを包み隠さずに歌えばいいじゃんってことに気付くきかっけになったんだよね」(曽我部・2008年)

アルバムタイトルは最初は「若者のすべて」だったが、そういうタイトルのテレビドラマが始まったのでやめて「若者たち」になったそうです。また、アルバム制作前に担当ディレクターの渡邊と曽我部は「それっぽいタイトル」をノートに書いたという。実際に曲になった「ご機嫌いかが?」や「田園風景」「やけっぱち天使」以外に、「内緒話」「幽霊屋敷」「海辺の叙景」といったアイデアがあったとか。

曽我部自身による「やり過ぎ」なイラストのジャケットからタイトル、歌詞の言葉使いまで、こんなに振り切られたのはやはりフリッパーズとパンクの存在があったからのようです。

「フリッパーズ・ギターが好きだったからこそ、親殺しじゃないけど、自分たちは何か違うことをしたかった。基本はパンクの精神があったから『これ誰もやっていないし、渋谷系から一番遠いし』っていう感じでした」(曽我部・2010年)

「ここで真面目なのを作ろうというのはすごいあったからね。ほんとは最初は『これが僕らなんだ!』というのを作りたかったんですよね、ファーストだし。でも『これが!』っていうのがあまり見当たらなかった。だったら『これが僕らです、っていうのがない』っていうのを歌った方が面白いし、なんでないのかという原因や理由をちゃんと歌わなきゃと思って」(曽我部・1995年)

アルバム「若者たち」について、石田幹人さんが1996年に発行した雑誌「JACKET」の1号『サニーデイ・サービス大特集』に「本当の意味での日本版ネオアコだと思う」と書かれていたように、曽我部も「アズテック・カメラとかペイル・ファウンテンズもそうだけど、ちょっとショボくて、でもそれまで20年くらい溜まってきたものが全て出てるような、、、ファーストアルバムのあるべき姿でしょ」とネオアコグループの名前を引き合いに出して語っていました。

また、音楽ライターの北沢夏音さんはそのペイル・ファウンテンズのことを「爽やかなネオアコ」ではなくて「青春を謳歌しているというより、青春の酷さ、やるせなさに、瞼を真っ赤に泣きはらしているような印象があった」と説明した上で、「サニーデイ・サービスは周回遅れの初期ネオアコバンドだ。サニーデイほど『青春』という言葉が似合うバンドもいない」と評していました。

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【購入検討中の方へ】
「SOMETHING ON MY MIND #1  サニーデイ・サービス特集」は4つの「ノート」で構成されていて、価格はそれぞれ「100円」になっています。単品で「ノート」を4つ購入してもいいですが、最初から全て読むつもりでしたら4つの「ノート」を収録している「マガジン」の方を購入いただくと4回購入する手間が省けてラクかと思います。価格はもちろん「ノート」4つ分と同一の「400円」です。
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東京(1996年2月21日発売)

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