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楽しみ方の多様性、について

2021年12月3日から ずっとわたしのnoteの下書きに入っていた記事を引っ張り出してきました。いちど抱いた気持ちを忘れないために 思い出せるように、下書きに遺しておく癖をつけておいてよかった。タイトルはそのまま、変わったり変わらなかったりしてきた環境や思いや考えを 嘘偽りなくできるだけ素直に、言葉にします。
いつか言葉にしようと思ってはいたものの、そのタイミングを ずっと伺っていたことについて。


普通に一体感が欲しいのに、ステージ見ないでMIX打ってる一体感って、その打ってる人たちだけの一体感でしょ? 別に私に向けてのコールでもないし見てくれてもないし 何回も歌うのやめようかなって思ったよ
(ご本人の伝えたい趣旨とのずれを避けるために 現文ほぼそのまま引用させていただきました)

先日話題になっていて 引用させていただいたこの言葉は きっとご本人の想像を遥かに上回る勢いで拡散され、これに対しての賛否両論が行き交っている。実際わたしのファンの方々や わたしの友人のアイドルまでもが この話題に関する思いや考えを発信しているのを山ほど見かけているし、プロデューサーとメンバーとの会話でも この話題があがった。

アイドルのライブで見かけられる『MIX』だとか『コール』だとか『振りコピ』というものは シンガーソングライターやバンドのライブでは馴染みのないもので、初めてそれを知ったときはもちろんびっくりはしたのだけれど、ひとつの文化みたいなものに思っている、わたしは。そのうえこの文化は いまに始まったことでは無い。でも いまこの発信が話題になっていることに対して わたしは正直「ついに」という気持ち、だ。


演者になるまえのわたしのこと

わたしが音楽の楽しみ方について考えるのは いまに始まったことではなくて、その始まりは学生のころだった。バンドやシンガーソングライターのライブを見るためにライブハウスに行くようになったばかりのころ。

中学生のとき 友人がSNSで「ライブ中ボーカルが歌っているのに客も一緒に歌っているなんてありえない」という趣旨の発信をしているのを見かけた。
ひどくショックだった。わたしはライブ中のシンガロングが大好きだったし、爆音にかき消されるのをいいことに ライブ中しょっちゅうボーカルに合わせて歌を口ずさんでいたから。

高校生のとき ひとりで行ったライブで演者が曲中に「全員肩を組んで!」と言っている場面に遭遇した。「肩組んでない人、見えてるよ!」とも。
ひどく困惑した。ひとりでライブハウスに行ってひとりライブを見てひとりで物販を買ってひとりで演者に感想を伝えてひとりで帰るのが、当時のわたしルーティンだったから。


演者になってからのわたしのこと

わたしたちSOMOSOMOというアイドルグループは2019年7月という『コロナ前』にデビューし、その約半年後に『コロナ禍』という壁にぶつかり、同時期に活動していたグループが次々と終わっていっても、いまコロナの第8波に至るまでずっと 活動を続けている。

デビューしたばかりのころは MIXもコールも好きなだけ言って欲しいし、フロアがぐちゃぐちゃになっているのが面白かったし、自分の名前を呼ぶ声が大きければ大きいほど嬉しかった。 ただそれは、『コロナ前』の話。

『コロナ禍』を迎え ライブハウスの足元には立ち位置を定めるラインが引かれ、マスクの着用が推奨、もしくは義務付けられ、マスクなしでの歓声や声援は禁止、もしくはマスクをしていても禁止、ジャンプや移動は禁止。最初はもどかしさを感じていたものの 人の慣れというのは恐ろしいもので、ソレが普通になっていった。

感染者数が一時期落ち着いていたころ「マスクありなら声出しありにしないか」と運営さんに提案されたとき わたしたちは口を揃えて「いやです」と言った。
あるのが普通だったものが ないことが普通になったわたしたちは、『ライブを邪魔されてしまう』と ソレを恐れるようになっていた。
何度も練習した振り付けを見てもらえないなんて腹が立つし、やっとうまく歌えるようになった歌をMIXやコールに遮られるなんて腹が立つし、ライブ中に私たちが腹を立ててしまっては わたしたちの生きがいであるライブが楽しくなくなる、ステージ上で笑えなくなる、そんなのいやだ、と思った。冒頭で引用させていただいた発信と、ほとんどまったく同じことを考えていた。

でもあるとき思い出した。
まだ売れていないド地下アイドルのわたしたちが、フロアに飲み込まれてしまわないように、わたしたちが飲み込めるようにしなければ 廃れてしまうこと。前後の演者が誰であろうが、どんなにアウェーな場所であろうが、どうやってその空間をわたしたちのものにするか。フロアをわたしたちのものにしてやる、という闘争心。フロアとステージが混じり合ってはじめて起きる化学反応があってこその わたしたちだった。
きらきらでふわふわな衣装でもない、ラブソングなんてひとつもないわたしたち。わたしたちを見て!と言うのではなく、わたしたちの方を向かせてみせるのが わたしたちSOMOSOMOだった。そうだ。
そこではじめて 変わってしまった『普通』と『それが普通になったわたし』に向き合えた。


楽しみ方の多様性について

エンターテインメントには最低限のマナーはある。クラシックのコンサートは静かに聴くべきだと思うし、混雑が予想されるバンドのライブは動きやすい服装で行くべきだと思う。

でも コロナ禍を迎えて、エンターテインメントの楽しみ方が 一歩下がって すこし遠くから見られるように 見るようになった。

『エンターテインメントにマナーがあること』ではなく、『エンターテインメントが規制されること』というのは珍しい、それどころか人類史上初めてだったような気すらしている。避けては通れない話題。
わたしが観客としてフロアに立っていたころも 演者としてステージに立つようになってからも エンターテインメントの楽しみ方に考えることが 当然あったのだけれど、それでもここまであまり直接的に触れずにきた(堪えきれず溢してしまったことは たぶん あるのだけれど)。


あまり触れたくなかったのは、そして触れてこなかったのは、『楽しみ方を強要したくないから』なのだ。


わたしのファンの方には、フロアの前方で全力で盛り上げてくれる人もいれば 後方や壁際でそっと見守ってくれている人もいる。都内近郊に住んでいる人もいれば 地方に住んでいる人もいる。遠征先で毎回会いに来てくれる人もいれば 遠征して会いに来てくれる人もいるし、どこに住んでいても いろいろな理由でなかなか会えない人もいる。社会人もいれば 学生もいるし、たくさん会いに来てくれる人もいれば、オンラインで応援してくれる人もいる。
ライブ中 前で全力で盛り上げてくれた人も、後ろでじっと立っていた人も、「今日も楽しかったよ」「今日も可愛かったよ」と言ってくれる。それぞれのテンション感で。それぞれの言葉で。それぞれ伝え方で。だから、わたしは、そのどれも、否定したくないのだ。

あれはやっていいけどあれはやっちゃダメ、なんて指定しはじめたらキリがないし、何よりきっとエンターテインメントが楽しくなくなる。
何が正解、誰が正しい、これは間違い、とかそんなのはないのだ。エンタメは正解がないから面白いし、正解がないのに誰しもがいいエンタメを求めるから、あってもなくても生きていけるようなエンタメが いつまで経っても無くならないのだ。


ただ、そこに愛がありますように、と思う。
目の前にいる演者のことが好きだろうが嫌いだろうが、よく知っていようが初めて観ようが全く知らなかろうが、それぞれの愛がありますように。



ところで わたしたちSOMOSOMOというアイドルグループはけっこう良いライブをします。一発でドカンと話題になるようなずば抜けたルックスや歌声やダンスがあるわけではないのだけれど。
突然フロアを降りてファンの方とMIXを打ったり踊ったり 歌わずに喋ったり煽ったりもします。なんだそれ。でも突然爆笑したり 泣きそうになりながら歌ったりもします。わたしたちがいちばん生身でいられる場所。
わたしたちは『アイドルとして』というよりは『SOMOSOMOとして』活動をしています。伝われ。

メンバーひとりひとりのことを唯一無二だと思っている。じぶんたちのことだから贔屓目で見ているみたいなところは、あります、が。
気が向いたら観てみてください。そして観にきてみてください。SOMOSOMOはいいぞ。!

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