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壊れた家庭で貧しく育ったダミアン・ハースト

今回は、ダミアン・ハーストの生い立ちとその背景についてお話しようかと思います。

ハーストは恵まれた家庭環境で育ったとは言えません。
壊れた家庭で貧しく育ちました。
実の父親に会ったことはありません。

ハーストは1965年に英国のブリストルで生まれ、リーズで育ちました。
母親のメアリー・ブレナンは、ハーストが2歳のときに自動車販売員と再婚しますが、ハーストが12歳のときに離婚。

家庭環境に恵まれないこどもがしばしばそうなってしまうように、ハーストも問題行動を起こすようになります。
具体的にいうと、万引きで2度逮捕され、薬物にも手を出しました。

母親のブレナンは、早い段階からハーストをコントロールできなくなったと述べています。

ブレナンは市民相談所に勤める保守的な女性で、カトリックの熱心な信者でした。
そんな彼女は、ハーストの反抗的な態度を抑えようと必死でした。

ブレナンは、ハーストが反抗的な服を着ていると、家に連れて帰り、その服を切り刻んだりしたそうです。
また、呪いの言葉が入っているからと、セックス・ピストルズのレコードをストーブに放り込んだこともあったそうです。

ブレナンは、ハーストの好むファッションや音楽を認めませんでしたが、彼の芸術への愛を理解し後押ししました。

意外なことに、ハーストは当初、芸術面であまり期待されていませんでした。
ハースト自身、子どもの頃は、将来好きなアート分野で食べていけるとは思っていませんでした。
そのため、建築家になることを考えていました。
また、美術教師から評価されず、美術の成績はE判定だったそうです。

ハーストは、高校卒業後、ロンドンに移り住み、2年間、建設の仕事をしました。
それでも、アート制作をやめることはなく、次第に建設の仕事はやりたくないことに気がつき、美術学校への入学を考えるようになります。

そして、いくつかの美術学校に入学を断られたあと、1986年にゴールドスミス・スクールに入学します。
ゴールドスミスを受験した理由は、絵画か彫刻かのどちらかを選ぶ必要がなく、単に「ファイン・アート」というコースがあることが気に入ったからだということです。
ゴールドスミスに提出した作品は、街で拾ったもので作った、絵のような彫刻のようなコラージュ作品でした。

この後は、学校の仲間と一緒に、伝説の自主企画展「フリーズ」を開くなど、ハーストはめきめきと頭角を現していき、注目されていくこととなります。

ダミアン・ハーストを理解する上で、彼の生い立ちを知ることは重要なことだと思うんです。
もしハーストに良き父親がいたら?
もしハーストが経済的に豊かに育っていたら?
彼が作る作品は全く違ったものになっていたかもしれません。
もしかしたら、平凡だったかもしれません。

わたしは個人的に、逆境を乗り越えてスターダムにのし上がったハーストがとても好きです。
たとえ、悪名高く、スキャンダラスで、常に論争を巻き起こし、物議をかもすアーティストだとしても。

タイトル画像は、6歳頃のハーストの写真をもとに描きました。
(下手でごめんなさいw)
そのころ彼はカトリックの学校に通っていました。




参考文献:Lac, Karen 「Damien Hirst: A Biography」 Hyperink Celebrity Bios. Kindle版.

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