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幸福の「ゆるやかさ」——快楽と最高善のかなたにある幸福観

わたしが与謝蕪村の「夜色楼台図」や、三好達治の二行詩や、長田弘の詩「友人」や、佐野洋子の絵本『100万回生きたねこ』などから導き出した、静かで、穏やかで、さりげない幸福のイメージは、洋の東西を問わず一般的に見られる幸福の図であり、幸福の語感と重なるものであるといっていいと思う。そこに見てとれるのは、日常の現実からそれほど離れることのない、日々の暮らしやふるまいと重なるようにしてあらわれ出る、幸福の「ゆるやかさ」とでもいうべきものだ。

長谷川宏『幸福とは何か』中公新書, 2018. p.77.

哲学者の長谷川宏氏(1940 -)の書籍『幸福とは何か』より引用。長谷川宏氏は、1968年に東京大学文学部哲学科博士過程単位取得退学。自宅で学習塾を開くかたわら、原書でヘーゲルを読む会を主宰。著書に『日本精神史』(講談社)、『高校生のための哲学入門』(ちくま新書)、『生活を哲学する』(岩波書店)などがある。

本書では、古代ギリシャ・ローマの幸福観としてソクラテス、アリストテレス、エピクロス、セネカの考え方、また西洋近代の幸福論としてヒューム、アダム・スミス、カント、ベンサムの考え方、さらに20世紀の幸福論として、メーテルリンク、アラン、ラッセルの考え方が紹介されている。それに加えて、長谷川氏の考える幸福観も、与謝蕪村の「夜色楼台図」や佐野洋子の絵本『100万回生きたねこ』を例にして紹介される。

ソクラテスはアテネでの裁判で死刑となり、弟子たちの前で死んでいくとき、とても幸福そうだったという。死によって魂が肉体を離れ自由に純粋に活動できることをよしとし、進んで死を迎えようとしていた。その理由は、人間の生きる意味は、個人の快楽の追求ではなく、社会的な正義や、普遍的な真・善・美の追求にあると考えていたからである。彼は真の意味で哲学者(philosoher=知を愛する者)だったのであり、人間の至高の目的である「知」の追求に身を捧げることができたと考えたからこそ、自らを幸福だと考えた。

この考え方を受け継いだのがアリストテレスである。アリストテレスも、人間の幸福(エウダイモニア)は、快楽ではなく、最高善を追求すること、その観想的な生活(知的な魂の活動)のうちにあると考えた。「最高善」とは何かというと、「自足した目的」「完結した目的」とされるもので、何かのために追求される目的ではなく、それ自体として追求される目的のことである。ここで想定されている最高善とは「徳」と言われるものとも関係がある。そのような「徳」や「善」といったものを求めて、知的な追求を続ける魂の活動こそが幸福だとアリストテレスは考えた。これはソクラテスの生き方そのものでもあった。

しかし、長谷川氏は、アリストテレスの幸福感には違和感を感じると述べる。アリストテレスは幸福が「最高善」と述べているように、幸福を「完全なる何か」「神々しい何か」といったところまで押し上げている。そこには一種の「厳しさ」のようなものが感じられる。普通の人間には容易に手の届かぬようなものに祀り上げられているのではないかという。

それに対して長谷川氏が考える幸福観は、もっと「ゆるやかさ」をもったものである。静かで、穏やかで、さりげない幸福のイメージ。日常の現実からそれほど離れることのない、日々の暮らしやふるまいと重なるようにしてあらわれ出る幸福観である。これは、アリストテレスの「最高善」としての幸福と異なるし、また単なる「快楽」の追求としての幸福とも異なる。

そうした幸福がもつ穏やかさ、安らかさ、ゆるやかさを大事にし、日常生活で保ち続けていくことは、現代社会では難しくなってきていると長谷川氏は警鐘を鳴らす。それは、現代が進歩主義にもとづく効率・迅速を尊ぶ心性を求めるからであり、それに伴う競争・緊張・労苦などが幸福の平穏さをかき乱し、安らかさを壊すからだ。しかし、日本人の精神性にはもともとこうした「ゆるやかさ」を基調とした幸福観があったように思える。私たちはもう一度それを思い出さねばならない。

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