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応募作品⑲「この時代に障害を持ち〝生きる〟ということ」

※この作品は2021年7月に、NHK『障害者福祉賞(第1部門 障害のあるご本人の部門)』に応募し落選したものです。NOTEに掲載するにあたり、気がついた分については、多少修正や加筆しております。

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この時代に障害を持ち〝生きる〟ということ

 私は、障害のある人でもあり、障害のある家族を支える人の1人でもある。しかも、私自身のことも私が支えている。それらを行うには〝自助〟が必要不可欠だ。

 出産をし子育てをしている中で子どもが知的障害を伴う自閉症スペクトラムとであることがわかり確定診断を受け、現在16年の月日が流れた。長かったような短かったような…。
 私自身の不甲斐なさが仇となり、精神科へ入院したことがきっかけとなり、母親である私の治療のために〝母子分離〟という形で離れ離れで生活をしていた時期もあった。

 それでも、子どもが支援学校高等部に入学することで再度また一緒に暮らすことができ、
自己満足になってしまうのだが、子どもとの関係性も少なからずは良い方向へ風向きを変えることができたように思っていた矢先、今現在もまだ終息にはいたっていないコロナの禍に巻き込まれてしまった。

 平成から令和の時代へ移ろぐ中で、障害のある子どもを育てることの難しさよりも、社会生活を送る上において、自治体毎の社会資源を名一杯利用し〝生きる〟ことの難しさをシミジミ感じてきた16年だったように思う。

 障害や難病などでも、それぞれで利用できる制度が違う。そして、何よりそれらのより良い情報を申請する当事者や保護者が知っておく必要がある。そうでなければ、公的機関はワザワザ教えてはくれない。そして「困っています。助けてください」という声をあげたとしても、地域や環境、障害の程度で受給できる制度が限られていたり、受給できないこともあり理不尽な思いをすることが多々ある。

 我が家の場合、子どもが療育手帳A1なことで、同じ障害(知的障害を伴う自閉症スペクトラム)を持つ人達の中でも、手厚い様々な制度を利用できる立場ではあるのだが心の底から〝満足〟していると思う支援を受けることはできてはいない。おそらく、我が家だけではないとも思っている。

 ただ、我が家の場合、かなり特殊な現状(私が精神障害(てんかん他)子どもが知的障害を伴う自閉症スペクトラム、ひとり親世帯、生活保護で他県から現地へ移住)なことから、公的機関に限らず医療や福祉支援に纏わる方たちも困惑してしまうことが多い。だからか、制度を利用するにあたり申請する時やその他の機関が知り得てない制度に纏わるエトセトラなことを、保護者である私のほうも知ってしまうことのほうが多い。こういった書き方をすると、まるで私が社会資源のことや福祉に関してのことを〝熟知〟しているように促えられてしまうように思うが、様々な制度の手続きを踏まえることで〝知りたくなくても知ってしまう〟ことになるのでそれは仕方がないことだとは思っている。

 自身が精神障害があり制度を利用する立場であるだけじゃなく、保護者でもあるからこそ、子どもの成長や自身の治療のために社会資源を利用するにあたり、時代の移ろいと共に変わり続けている制度が、何らかの問題が起こることでたち消えてしまったり、その場しのぎの制度が出現することを何度も経て、制度を利用してきたことが私の知識が増えていく要因にもなったのだろうと思う。

 前述にあげた支援に纏わる現場の人たちよりも、どうしても私の経験値が高くなってしまう理由は、そういったことから知識が増えていくだけにとどまることなく、特殊な状況に陥ってしまったことにふまえ、自身に〝てんかん〟が発覚したことで車の運転ができなくなったことから、将来を見据え、私や子どもの親亡き後のことを考え〝移住〟をしたことも重なり、改めて我が家が受給できる制度のおさらいをすることとなったことが大きい。それらは、役場への申請に限ったことではなく、医療や福祉を利用するにあたり『こんなもんなのか…』と何度もがっかりし、理不尽な思いを握りしめ地団太を踏むだけの日々を思い知り、苦虫を食い潰したような日々を過ごしているからだ。残念ながら。
  
 支援に纏わる人たちが我が家のような特殊事例に対応できないのは、当然だろうということは想像はできる。それは、我が家のような特殊事例よりも雛型の書類を受理する割合のほうが多いと思うからだ。だからこそ、制度を利用するための書類提出で、受け取る側の担当者が書類を確認する際、間違っているかどうかさえわかっていない人もいることが見て取れることもある。

 すぐ返事が返せないならば、確実にわかっている人や部署へ確認すればいいことだ。でも、それは個人的な向上心がなせる技のようなものなので、そこまで一個人が求めても仕方がないことだとはわかっているのだが、繰り返し何度も理不尽な思いに駆られ〝怒り〟だけが増産されていくような状況に陥っている人たちが存在しているということは知っていただきたい。

 現状の仕事の理解で今まで自分は仕事ができていると思っている人たちは、おそらく、自身が何を間違っているのかさえ気がつけないだろうし、間違ったこともないくらい雛型の仕事を行ってきたということをどこか頭の隅に置いてもらえないだろうか? 今まで自身の携わっていた仕事が法制度の改正により、以前までは正しかった回答でも現状では違っていることがないかどうか、今一度わが身を振り返ってもらえるといいなと思う。

 なぜなら、書類提出や相談などの匙加減1つで本当は受けられるかもしれない支援を受けられなくなってしまう人たちが存在することを知ってもらいたいからだ。知らなかったでは済まされないのが〝公の立場〟であるということもどうか思い出してもらいたい。

 公的な立場に限らず、医療や福祉の現場でさえ個人的な介入はできない。役所への申請の場合だと私たち弱者の立場への直接的な介入はできない。それでも、めい1杯制度を利用し暮らしている私たちのような身の上の人への〝支援〟になりうるんだということをどうか知ってもらいたい。

 弱者である当事者でさえ、個々が支援を受けることで少しでもより良く成長したり、障害や病気などで日々衰えていく機能を落とさないために、様々な制度を受給し日常を過ごしているのだ。たった1枚の書類になるのだが、されど1枚の書類なのだ。それらの申請が我が家のような弱者の立場への支援になると私は体感しているが、実際、申請時の窓口対応が〝支援〟とはいえないように感じるかもしれないが〝支えの1つ〟を担っていることをどうか心へ留めておいてもらえたらいいなと思う。それは、私たちにとって、日々の生活を楽にするための入口になりうるからだ。だからこそ、公正に取り扱ってもらいたいなとも思う。
 
 なぜ、私がこうしたことを訴えているかというと、役場の書類申請に限らず、福祉や医療を利用し支援を受ける際のトラブルが起こった時、苦情を伝えたり相談をするにあたり、たらいまわしになることが多かったからだ。そして〝苦情〟や〝相談〟をする前に未然に防げる方法があることに気づかれていないことも経験したからだ。

 我が家の場合には、私が精神障害者で子どもは重度の障害者に加え、ひとり親世帯で生活保護を受給している。 生活保護を受給している場合、使える制度は全部使うことが前提なことでより複雑になってしまうことが多い。そういったことから、自治体によっては本来使えるだろう制度が使えない事態になることもあるし、使えたとしても事業所がないことで結果的に使用できないこともある。そういったことに加え、法の下で受けられる制度は確かにあるのだが、それらが各自治体毎で在るけど使えていない、又は機能しきれていないという事態が巻き起こっているだろうことも感じている。
 自治体毎にそれなりの母体は作られても、実質それらが上手く機能しない事態になり結果的に無くなってしまうこともある。

 後、他県から現地へ引っ越するにあたり気がついたことになるが、政令市例都市だからこそ、支援の幅が大きいのは確かだと思う。が、それらが本当の意味で困っている人たちの支援策になっているのかを一体どれくらいの人たちが把握できているのかは疑問に思っている。

 弱者支援に限らず、様々な制度のアナウンスは確かにされているし、支援策が打ち出されている。が、しかし、我が家の場合、制度を受給できる資格にしっかり当てはまっており、一般の人たちよりも優先順位的には高いはずなのだが、結果的には、さほど優先されていると思えないことが多い(苦笑)

 何度も、実質困っているという声をあげても、利用できないということが我が家では勃発している。これは、現、住んでいる自治体でのことだが、以前住んでいた自治体はもっと最悪だった。それは、独自の支援制度があっても使えない状況だっただけではなく、ひとり親世帯で母子共々障害があることで、優先順位が高いはずなのに支援策として対応してもらえなかったことが一番腹だたしかった。

 現地へ来てからもだが、自治体毎の窓口の1部の人に、声を荒げたことが数名存在する。その中でも印象深かったのは、以前住んでいた県の生活保護課の課長クラスの方と制度のことについて話をさせてもらった時のことだ。
 現場の職員の方に話しても暖簾に腕押しだったことから、上司の人と話をさせてもらうことにした。その時、対応してくださったその課の課長が私の苦情を聞きながらメンドクサソウに私からの問にたいして応えてくださった中に

「食費1万円で生活するってやってみれば?」

 というクソバイスをされたことがある。目が丸くなった。知事に和紙に筆書きで書状でも書けばよかっただろうか…?。私は芸人じゃない。バラエティ番組の企画やドラマや映画でもなくリアルに生活している身なのだ。しかも、私1人じゃなく、知的障害を伴う自閉症スペクトラムの障害持つ、食べ盛りの思春期の息子と二人暮らしだったからだ。しかも、へき地のような場所で車も使えない状況で買い物にいくのも全部徒歩で行わなきゃいけない状況だった。以前住んでいた自治体では、私のような知的に問題がなく身体的にも軽度な不具合がある場合には、介護度が低く障害区分として認定されないので、買い物支援や訪問看護の支援も受けることができなかった。

 都会じゃないのでウーバーイーツもなかった。宅配の業者はあるが、正直そんなに安くもない。そういった現状を知ってか知らずか「食費1万円生活」といった、何かのバラエティ番組を思わせるような言葉を県の生活保護課の課長クラスの人がノリで言えたことに驚いた。

 たった一人のこういった言動が知事含めた県を含む自治体全員の体質を問うてしまう出来事になったのだが、そうしたことで役場との信頼関係は崩れていくし、公的な機関を頼りたくなくなる要因になってしまうキッカケになることを知ってもらいたい。

 唖然としただけではなくとても憤りを感じた。すごく悔しくて仕方がなかった。それを自己責任ということで世の中片付ける人たちも存在するようだが、我が家がこういう生活保護を受ける事態になったのは、私だけの責任でもなかったことは誰も突っ込んで介入してはくれなかった。

 それこそ、生活保護を受給するにあたり〝債務整理〟を行うことになったことで、何故、我が家が〝債務整理〟をせざるを得なくなったのかを覚えている限りの事実を言わざるを得ない事態となったのだが、それは、司法への提出になるだけなので、結果的には〝債務整理〟をするための矢無負えない事情を司法へ届けるためだけの証拠みたいな証言をしただけにすぎない。そういったことが起きたことに加え、車に乗れなくなったことから今後の生活を生活保護の状況で他県へ移住するにあたり、受けた住宅支援が最悪だったことで改めて憲法25条の第1条・第2条のことを考えさせられることにもなった。

●日本国憲法(昭和二十一年憲法)第25条
第1項/すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項/国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 これらは、日本国憲法25条のうちの1部になるが、正直言って実質、障害や病気を持ち、働きたいのに働くことが難しく子どもも重度の障害があることで生活保護を受給せざるを得ない我が家が2年あまりの中で体感してきた身としては、健康で文化的な最低限の生活を営むことは実質できないに等しい。しかも、憲法をみると(昭和二十一年)に制定されているものだということにも驚いている。

 その当時と現在ではかなり社会的な情景が違う。生活基準も制定された頃から時代に準じて変わっているようだが、課題は積み重なっているだけのように思う。それに、その当時に若かった人たちが今現在老齢期になり、生活保護の制度を使わざるを得なくなっているケースもあると思う。そして、現在コロナ禍なこともあり、生活保護を受給せざるを得なくなっている人たちが多くなっていると思うのもあり、弱者救済のための〝生活保護法〟に関しても改めて考え直す時期にきていると思う。なぜなら、弱者救済の場合、終末期の人たちへの支援となんらかの状況で病気となったり障害を持ちながらこれからも生き続ける人たちとでは、支援のスタイルを変えないと【これから】も生き続けるだろう人たちにとっては、抜け出せない沼に落ちてしまうような制度でもあるのが〝生活保護〟のように体感しているからだ。

 昨今、生活保護受給者の不正やそれに携わる人たちの悪事に焦点が当たることが多いが、実質、本当の意味で困るのは、障害や病気を抱えてながら受給しはじめると〝生活保護〟を卒業することが案外難しいということだ。

 一次的に生活保護の制度を利用することになっても、生活保護という制度のことを理解し、その人が健康であり、働く意欲がなければ抜け出しづらい。なぜなら、生活保護は収入申告をしなければならないからだ。その収入申告もなかなか厳しい。お金が生み出されたら1円からでも申告する必要がある(苦笑)現に私は宝くじを買い300円当選したことも申告したし、息子が作業所で得た数百円のお金さえ申告していた。というか、そうすることが求められている。それだけではなく、例えば、なんらかの形で高額のお金を得た場合にはそれらを申告する必要がありそして返還する義務がある。

 返還しなくてもいい場合もあるのだが、奇特な人や団体がボランティアでまとまった金額を寄付してもらった時と申告した中で自治体の話し合い次第で金額も異なる。とどのつまり、長くなれば長くなるほど、返還する金額が増量するだけなのだ(苦笑)いわゆる税金を前借しているだけに過ぎないということ同等なことを知らない人たちが多いように思う。

 医療費や福祉サービスも実質無料だが返還しなければいけない状況になった場合、全額ではないが一部は返還することになる。それに、一応〝生活保護〟を受給してる場合には、働ける人は働くことが条件になる。その場合収入申告をすることになるが、働いているということで得た収入になるので、一応働いていない場合よりも支給される金額は増額される。現在、私は働けない状況であることから、増額されることがない。そういうことがなければ、貯めようとしても中々貯蓄することは難しいと思う。

 いわゆる、生活するにあたり、本当に限られた中で楽しみを持ち生きていける人じゃなければ、ある一定の生活レベルをしていた経験がある人が〝生活保護〟を受給するということは、その人の生活レベルに限らず、本来持っている生きていく力も損なってしまうことにもなっていまうように思う。なぜなら、制限のある生活の中で一番大切なことは、生活保護を受給しているという暮らしを恥ずかしいと思わず、限られた中で喜びを感じながら生きていくには〝知恵〟や〝知識〟が必要不可欠だからだ。それでも、人は完璧な生き物ではないのだから、じゃあ、こういった風にすれば楽になりませんか?といったアドバイスをするのが、制度を知り、支援をしていく立場の窓口になっている人たちではないのだろうか? ベルトコンベアー式で雛型の書類とにらめっこをしているだけで済ませていないだろうか? にらめっこしている書面の向こう側に、生身の人間が存在しているということを感じてもらえないだろうか?

 他にもたくさん問いたいことがあふれてはくるが、戦わずに自身の中でなんとかそれらをおさめる方法を模索してきたことで得た「ショウガナイ」という呪文を自身や重度の障害を持つ息子に何度も解き放ちながら日々を暮らしてきたのだが、私たちの課題は増えていくだけで支援者を支援してる感否めないことが多い。だからこそ、そんな日々を「ショウガナイ」という6文字では済ましてはいけないと思いこうして言語化するにいたった。

 私たちのような身の上の人たちが一人でも減っていく世の中になるよう願いを込めて。

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