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「KIGEN」第六十五回



 垣内部屋には早朝から活気があった。一月場所を終え厳しい寒さの募る二月を迎えている。ウォーミングアップに部屋の近所を走って来た基源は、早くも額に汗を滲ませて稽古場へいの一番に入った。まわしは真っ新な白色である。これも十両に上がって変わった事の一つだ。垣内部屋で白色のまわしをつける者は現在二人いる。

 一人が基源で、もう一人は幕内にいて、彼が部屋の中で最上位だ。前頭四枚目辺りから十枚目辺りを場所ごとに行き来する、所謂いわゆる平幕力士だ。幕内へ上がってそろそろ二年になるが、三役を目指して毎場所奮闘している。横綱から金星を獲った経験もある。基源より五つ歳上で、基源の入門当時からよく知った間柄だ。幕内力士が部屋に居ることは基源にとっても大きな刺激となっており、また稽古をつけて貰える貴重な相手だった。現在垣内部屋はこの二人を筆頭に日々切磋琢磨していた。


 基源にとり嬉しかったのは、弟弟子の誕生だった。年に一人か二人ずつ、全くいない年もあったが、かつての基源の様にまだ少年の体つきをした男子が角界入りを希望して垣内部屋の門を叩く。親方に見込まれて誘われて来る者も居る。そんな彼等が弟子見習いとして同じ部屋で暮らし、新弟子検査を経て正式に入門を決めていく。既に懐かしく傍目に初々しいそれら一連の流れを見守り、当時の自分と重ね合わせて見た。入門を済ませた新弟子たちが、素直な憧れや、強くなりたいと願う熱い眼差しを注いで、熱心に兄さん兄さんと向かって来る事に、かつて経験した事のない喜びと充足感を得た。彼等の世代には基源がAIを含む人間だと浸透していた為、改めて説明の必要もなかったが、たまに家事や雑用の合間に基源と二人きりになったりすると、恐る恐る、実はずうっと気になっていたという様子で、人工知能について質問される事がある。

「あの、基源兄さん」

 遠慮がちに呼ぶ。
「なに?」
「兄さんのAIは何処にあるんですか?」

 AIはコンピューターのシステムであり形はない。脳味噌が頭部に位置するように、心臓が胸部に存在するように、定められた場所があるのではない。むしろ基源の体内から移動さえ自由だ。しかし基源は敢えて居場所を示した。稽古場では決して見せないにこやかな笑みを見せて、人差し指を頭にとんとんと当てる。

「ここに入ってるよ。脳味噌と両立して働いてる」
「へえー凄いんすね。でも相撲で激しくぶつかって、壊れたりしないですか」
「うん、脳震盪は人並みに起こす事もあるけど、AIの方は無事かな。なにしろ開発者が天才だからね」
「開発者・・あのJAXAの、古都吹奏ことぶきかなたさんですか」
「そう、私の家族であり友人であり、開発者の奏。みんなにはもうJAXAのって言えば伝わるよね」
「はいっ有名な方ですから」

 弟弟子の顔が輝きを増した。若くして最先端AIロボットの研究チームのリーダーを務める奏は、基源の実績もあり、論文を書けば世界中から注目を浴びるいまや科学の有名人となった。人工知能もロボット工学も宇宙科学も知らない人間でも、奏氏のAIならば知っている。基源は奏の活躍が世界中から注目を浴びることが自分のこと以上に嬉しかった。そして自分が活躍すれば今後もっと奏の研究が充実すると思うと、俄然気合いが入った。

「はい、お喋りおしまい。早くそれ洗っちゃいな。もうすぐ稽古だよ」
 言って基源が先に立ち上がると、弟弟子は慌てて手を動かす。バケツの水を散らしながら急いで雑巾を洗う音が、冬の厳かな庭先でじゃぶじゃぶ響いた。


 基源は十両へ上がっても更なる高みを目指して愚直に相撲道を突き進んだ。毎場所勝ち星を重ね、一度も負け越す事無くまた夏が来た。


 七月、名古屋場所。新幹線のホームへ降り立つと、いきなり蝉の声がかまびすしい。街の喧騒より盛んに泣き散らして憚らない。息吐く間もなしに早速うだるような熱風が肌に纏わりついて、浴衣の裾から夏が寄せては立ち昇るようだ。一門の力士がホームへごっそり出て来たものだから、偶然居合わせた一般客から驚きと歓声が上がった。中には初めから撮影目当てで待ち構えていた新聞記者等もいる。


 藍、臙脂、藤、黄金、翡翠・・・思い思いの色や柄を合わせた反物で仕立てた浴衣へ自らの四股名を白く染め抜くことから「染め抜き」と呼ばれる。色とりどりの染め抜きを身に纏う力士がぞろぞろと歩いて行く様子は目にも涼し気で、暑さも一瞬間忘れる。視線を持ち上げれば、黒光りした関取の髷は息をのむ美しさがある。案外至近距離から一行を眺め見ては、鬢付け油の匂いまで漂ってきそうに思う。皆ことごとく大柄で、固まって動けば何だかおにぎりがぎゅうぎゅうに詰まった幕の内弁当を思い出す。名古屋の夏の風物詩だ。


 ホームの人だかりの中から「基源だ!」という声が聞こえて来た。子どもの声だった。基源はちょいと首を伸ばして声した方を振り向くと、父親に抱えられたリュック姿の男の子がおーいと手を振っていた。基源はにこりと笑って「おーい!」と手を振り返した。傍へ駆け寄って遣りたいが、ここで立ち止まると周囲に迷惑をかけるので、足は止めずに流れに従いホームを降りて行った。


 闘志にはとうの昔に火が付いている。暑さには慣れっ子だ。うだる熱風など味方に付けてしまえばよい。瞼に掛かる汗を弾き、ただ上を目指すだけだ。誰にも負けられない夏場所が始まる。つい今しがた見せた柔らかい笑顔はもう鳴りを潜め、基源は鼻息荒く宿舎へ向かった。


第六十六回に続くー


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ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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