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息子を追悼して

バイクの事故で23年の命を終えた息子。誰かの心に触れるものがあればと思い、親族と友人たちに送った手紙をここに。

タミームを心に留めてくださった人たちへ。

8月6日(2022年)、土曜日の夜11時頃、警察が悲しい知らせを伝えに来ました。タミームがバイクで事故にあい、亡くなったと、静かにもはっきりと伝えられました。
車との接触事故でした。
タミームは正しい車線を走っていたということ。免許の履歴から、タミームがいつも安全に気を付けていたことがわかり、小型バイクから大型バイクの免許にと、順次取り続けていたバイク好きであること、そのバイクのコミュニティというものが、いかに強い絆を持っているかということも、警察は話されました。

この日のバイクでの走りは他の二人、ほぼ初対面に近い青年たちとでした。彼らはタミームよりも前方を走っていました。後ろからタミームのバイクも他の車も来ず、おかしいと気づいたそうです。
ダブリン北部、ドナベートというエリア、ハースロードという道路での事故でした。

タマラが友達数人とホリデーに行っている時だったので、急きょ、帰国するよう連絡を入れました。友達もみな残りのホリデーをキャンセルし、タマラを支えたいと、翌日一番早くダブリンに着くフライトで、一緒に帰ってきてくれました。
タミームの数年来のガールフレンドであるポーリーンにも、私はすぐに連絡を入れました。泣き叫ぶ彼女の声と、混乱をきたしているご家族の声を、私は受話器ごしにしばらく聞いていました。タミームと一緒の将来を夢見ていた、若く優しい彼女に、過酷な現実でした。

事故の翌朝、病院で、冷たくなったタミームと対面しました。うっすらと目を開けているタミームの表情はおだやかで、どこまでも静かでした。親子でよく似る、かぎ鼻の骨の出っ張ったところに、勇者の証のようなかすり傷ができていて、それがなんともタミームらしく見えました。
病院付きの司祭による短い祈りの時間を、ここで取らせてもらいました。

その後、コロナウイルス陽性の判定が出たということで、タミームの遺体が自宅に戻されるのに数日を要しました。お通夜を待たずに多くの友人、知人が次々と来訪したため、我が家の玄関のドアは開けたままでした。シリア人コミュニティの人たちも多く来られ、タミームのシリア側のいとこたちが、苦めのアラビックコーヒーをふるまって対応してくれました。
隣近所の人たちが、大勢の来客に対応した軽食の差し入れを次々としてくれ、私たち家族の為に、温かい煮込みや炊き立てのお米まで持ち運ばれました。私は3週間も、一切買い物や食事の支度をする必要がなく、すべて近所の人たちを中心とした友人たちの連日の差し入れに甘えることとなりました。
突然の喪失に、悲しみが私たちみんなの心にあふれる中、我が家は優しさがあふれかえる場所でありました。

我が家の庭は表も裏も、近所の人たちが早々に、何台もの芝刈り機を使い、きれいにしてくれていました。アイルランドとしては異例の晴天が続く、信じられないほどの暖かい1週間で、庭を使えたことで、多くの来客をもてなせました。近所中からガーデン用の長テーブルとベンチが次々と運ばれ、大きなパラソルが5つも連なり、飲み物から軽食まで、すべて近所の人たちによって準備されました。

お通夜は水曜日となりました。棺に横たわるタミームに会いに、大勢の人たちが来てくれました。小学校から大学までの級友たち、その親御さんたち、先生方、高校卒業まで続けた、地域のサッカークラブの仲間やコーチ、情熱を共有したバイク仲間。私たち家族の友人知人。家の中も外も来客であふれ、贈られたたくさんの花が飾られました。
お出かけというと気に入ってよく着ていた、黒のジーンズとグリーンのチェックのシャツを身に着けた棺の中のタミームに、みんながやさしく語り掛けてくれました。彼のトレードマークのようなボリュームある前髪をくしゃくしゃとなでて、お別れしてくれる人たちもいました。
すこやかな若者たちの姿が多かったからでしょうか、悲しいながらも、あたたかな繋がりとなつかしさに満ち、さわやかな空気が流れるお通夜となりました。

翌日、木曜日の葬儀は、近くの教会で執り行われました。タミームが小学校二年生の時、カトリックの初聖体(ファーストコミュニオン)のお祝いをした場所でもあります。
自宅から最後のお別れとなって運ばれる棺を、住宅街の人たちが、通りに立って見送ってくれました。
教会までの道においては、タミームのバイク仲間を中心とした50台ほどのバイクが隊列を作り、棺をのせた車の後ろをエスコートして走ってくれました。ガード オブ オナー(Guard of honour)と呼ばれるものです。タミームが何よりも喜んだであろう、圧巻な隊列でした。警察も交通規制に出てくれ、青空の下を流れるようにバイクの隊列があり、泣き叫ぶように爆音が響いていました。
葬儀での音楽は、タミームの小学校時代の先生方がかって出てくれました。ベットミドラーの「ローズ」(The Rose)や、伝統的な聖歌から「主よ、みもとに近づかん」 (Nearer My God To Thee)など、なつかしい先生方の歌声が聖堂に響きました。例年のホリデーで過ごした夏の佐渡で、夕方5時になると流れるビートルズの「イエスタデー」(Yesterday)も、タミームがとても愛着を持っていたことから、葬儀の最後に入れました。
タマラと、いとこのダニーが、大勢の参列者を前に、それぞれ、りっぱな追悼の言葉を述べてくれました。

金曜日の埋葬は、父親であるナセルのイスラム教の習慣に従って執り行われました。
この日の朝、まさに駆けつける形で、私のいとこのやっちゃんが、日本の親族を代表して来てくれました。空港からもタクシーをとばして、タミームの姿を見ることのできる最後の最後に、ぎりぎりで間に合いました。タミームはやっちゃんをとても敬愛していました。
イスラム教のしきたりに従い、タミームの体が清めなおされ、白い布に包まれるプロセスに、医師であるやっちゃんには特別に立ち会ってもらいました。
とりたてるほどの大きな外傷もなく、タミームの体はきれいな状態でした。バイクに乗るときはいつも必ず、身を保護するバイク用のジャケットとズボン、ブーツをはき、ヘルメットの扱いも、とても注意していました。

埋葬に先立ってのモスクでの祈りに、不慣れな場所にもかかわらず、友人知人が、敬意をもって集まってくれました。モスクから墓地までは、親しいバイク仲間たちが再度、棺をのせた車の後ろを、エスコートして走ってくれました。

ダブリン南西部のニューキャッスルにある墓地での埋葬には、最後のお別れをしに、大勢の人たちが来てくれました。
土葬のために掘られた穴は、かなりの深さがあります。非情にもブルドーザーが音をたてて土をかき集めるそばで、棺をゆっくりと地中におろしました。
指示される通り、親としてナセルが、そして私が、両手にもった土を、地中深くおろされたタミームの棺に向かってかけました。私は母親として、子供が生まれてからずっと、その子の先に広がる命に向かって、より良いもの、幸せなもの、喜びとなるものの一助となるよう、努めてきました。母親として棺に土をかけることは、そんな先に広がる何もののためでもなく、むしろ、終わりとすることに両手を染めるようなものでした。「I am sorry Tameem. Good Bye」そう言って、土をかけました。

事故現場は、麦畑が広がる場所です。日が沈むのが遅いアイルランドの夏において、夕日で麦畑がまさに黄金色に染まり、光かがやいていました。警察に案内された道路わきは、その一角だけ麦の穂が倒れこんでおり、黄金色の麦畑に抱きかかえられるように命を終えたタミームを物語っていました。
10か月がたった現在、いまだ、事故の捜査は終わっておらず、具体的な情報は、一切、知らされていません。タミームの所持品も、身に着けていたものの一切も、まだ返されていません。
事故による直接の死因は、胸部大動脈の裂傷による、循環血液量減少によるショック死ということでした。

タミームは23年という命を、思い切り生きました。熱意をもって生き、多くの人に愛され、喜びの多い23年の命でした。
バイクに情熱を注ぎ、バイク乗りとしても、メンテナンスする腕も高く、仲間から頼られる存在でした。部品や工具一つ一つも、興味と熱意をもって扱っていました。
多くのよき友達に恵まれ、好きなことに没頭して過ごすのがタミームでした。同世代だけでなく、周りの人たちみんなと親交を交わしていたので、敬意をもって大切にされてきました。
大学では機械工学の学位をとり、卒業してエンジニアとして真剣に働き始めて一年目でした。

ここに、タミームを心にとめてくださった人たちすべてに、感謝申し上げます。
タミームに優しく声をかけてくださった、その一言一言、思いやりある親交の一つ一つ、タミームを認め、大切にしてくださったすべての心、あたたかい思い出を共有してくださったその時間のすべてに、感謝申し上げます。

かけがえのない、大切な存在であったタミームを、これからもずっと、心に抱いて生きたいと思います。
私は、タミームが今、天国にいると信じています。

母として。
2023年6月

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