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一緒にいてあたたかい気持ちになること

話をうけとめてくれる人との会話はとても心地よい。経験の差でもあるし見ている世界の共通項が違っていたりもする。そりゃ受け止められなかったり通じない人もいるよねと思えるようになってきたのもよい。まずは自分をしっかり整える。整えるというワードはよい。「きちんと」というワードは人から与えられるものではなくて自分で自分に使うもの。自分基準で恥ずかしいと思えるかどうかが大切で、それにあっていればいい。他人の基準に合わせる必要はない。
友人に恵まれているなと思う。やっぱり人ありきで能力はそれに付随するものだなって思う。そして、人に能力は付随するものだなって。ふさわしい人になりたいと思う。

人の雰囲気とか醸し出すものの違いって大切。その醸し出すものがなんか違うと思う人にたいしてそこまで近づく必要はないなと思う。「なんか違う」の感覚は大切にした方が良い。しんどくない距離を保つ。今の私の課題であり大切にしたいと思っているのは、「一緒にいたい」と思える人との距離の保ち方。
VOGUEの宇多田さんインタビューに書いてあったことにハッとした。

ー愛ってよくわからなかった。(中略)そうか、私は対象に愛されている感覚を与えたいんだって気づいたんです。私が子供に「愛されている」と感じてほしいからしていることを自分にもしてあげればいい。愛する相手にこうなって欲しいという気持ちを、自分に適用すればいいという大きな気づきがありました。

ー「愛」と「痛み」がセットになって、混同してしまう。痛い思いをさせられる相手を愛の対象だと思ってしまう。

VOGUE7月号 宇多田ヒカル✖️ジェーン・スー IN MY MODE

私も愛はよくわからない。愛と痛みがセットになっているという部分に共感できることに気づいた。「愛されていると感じて欲しいからやっていること。」は「BADモード」の底辺に敷かれているものだなって思って納得した。
そう考えると、私が愛している人に対して何ができているんだろうって思った。愛しているよ、って言葉で伝えることは負担になると思うし、気恥ずかしくて言えない。無条件に愛してもかまわない人がいることも幸せ。私はこどもがいないので、お母さんたちは絶対的に愛する対象があるのでいいなと思ったりもして大変だという話を聞いていてもちょっとうらやましい。
今は愛は痛みじゃないということはわかる。それは大切にしてくれているひとがいるからだし、見守っていてくれる人がいるから。ありがたいなと思う。そういうひとたちにやってもらってうれしかったことを私は自分にもしてあげたら良いのだと思う。そばにいて話を聞いてくれたり、拙い言葉をすくいとってくれたり。ただ寄り添って時間を一緒に過ごしてくれたり。何かをプレゼントしてくれたとかでそこまで嬉しかったことはないかもしれない。ただ、一緒に話をして、時間をすごすことがとても嬉しかったと思う。そういう人と一緒にいられたら幸せだなって思う。

愛が痛みだと捉えていると、愛し方がわからない。痛みを与えることが愛だとどこかで思っているのかもしれない。そうすると自分に対しても、人に対しても、一緒にいることが負担になると思うから近づくことができない。はりねずみのジレンマ。近づくと傷つけてしまうから距離を保ってその人のそばにいる。愛ってなんだろう。私がやってもらってうれしいことがその人にとってうれしいことなのかどうかというのもわからない。愛は痛みじゃないというのなら、一緒にいてあたたかい気持ちになることかもしれないな。生きていてくれるだけでも嬉しい。そばにいてくれると心が暖かくなる。そういうものかもしれない。


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