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第49話:歯医者さん

[子どもの成長の記憶と記録]

この間、生徒が書いてくれた似顔絵を紹介したが、そう言えば昔、自分の顔を描いたことがあったなあと思い、埋もれていたスケッチブックを引っ張り出したが、見つからなかった。
代わりに、息子の小さい頃を描いたデッサンが出て来た。

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くちゃくちゃだし下手くそだが、どうせそのうちなくなってしまうならここに置かせてもらおうかと・・。

それで、今回は息子が小さかった頃の歯医者のお話をなんとなく。


僕は子供のころから歯が弱く、随分歯医者のご厄介になって生きて来た。小学校の頃は十数本の虫歯を抱えて歯医者に通い詰めた夏休みもあった。

歯医者が好きな人は余りいまい。今の歯医者は痛くないように随分気を使ってくれるようになったが、昔の歯医者はそうではなかった。待合室で順番を待っていると治療室から叫びや呻きが聞こえて来て胸をギュンギュン締め付けられた。

順番が来ると意を決して覚悟するのだが、いざ機械が口の中でギーンガリガリギロギロと音をたて始めると、醜いとは思っていても顔は歪み、憚りなく呻き声などあげてしまったりする。ヤットコのようなやつでゴリゴリと力任せに?むしられるように歯を抜かれた経験が脳裏に焼き付いている僕は、歯医者と聞くだけで背筋に悪寒が走ってしまう。


自分が嫌だったことは子供には経験させたくはないというのが親心である。しかし、息子も期せずして歯医者に2歳にしてご厄介になることになってしまった。

と言っても虫歯ではなく、誕生日を迎える数日前、ある芝生の広がる公園で遊んだ時に、ロープに引っ掛かって転び、そこに偶然にもあった側溝の鉄の格子状の蓋の凸面に前歯をぶつけて折ってしまったのである。
普段は転んでも泣いたりしないのだが、このときはさすがに痛かったと見えて息子はワンワンと泣いた。

かなり血は出たが、子供に怪我は付きものであり、たいしたこともあるまいと思っていたのだが、よく見ると前歯が一本奥に傾き、その歯の真ん中に縦に割れたようなスジが入っている。早速カミさんが知り合いの子供専門の歯医者に電話したところ、明日いらしてくださいというので出掛けたのであった。

いつぞやも大人の身長程の高さから落ちて病院に行ったところ、レントゲンを取るのに多大な迷惑をかけた実績のある息子は、期待通り治療室に入った途端に暴れ出した。

一瞬、こいつをどうやって治療するのだろう、親が傍にいてなだめる?押える?などとも思ったが、ここでは親は中に入ることが出来ず、治療は幸か不幸か全て向こう任せであった。

レントゲンだけは僕が中に入って抱き抱えながら一緒に撮ったのだが、その時ふと治療している他の子の姿を見ると、タオルでグルグルと体を巻かれ、ネットで治療台に固定されていた。

子供専門の歯科医というものに初めて行った僕にとってそれはなかなかに印象的で、親としては甚だ衝撃的な光景だったことになる。

一度治療法の説明があって治療室に入ったが、やはり同じ状態で台にくくり付けられ、まったく身動きの取れない状態で涙を流しながら悲しげな目をしてこちらを見ている息子を見て、切なさを感じざるを得なかった。


評判の良い歯医者という言葉どおり、治療は丁寧で昼休み返上で1時間半以上にも及んだ。

途中の説明では「縦に深くヒビが入っているから、だめかもしれないが、一度抜いて歯を付けて埋め戻してみる」とのことだった。「普通はここまでやらないで抜歯してしまうけれど」と言いながら、それでも「出来る限りやってみましょう」と言ってくれた。

乳歯でも永久歯の歯並び、言葉の発音、噛む力など、前歯が一本あるかないかでは随分違うとも説明される。結局「何とか大丈夫でしょう」という幸いな結果となるのだが、待合室で待つ間、気が気ではなかった。流れるクラッシクの音をつんざいて聞こえて来る息子の壮絶な叫び声。その声が聞こえるたびに胸が締め付けられ、台にくくり付けられている悲しげな姿を思い浮かべながら、世間でよく言う「代われるものなら代わってやりたい」という親心を実感としてしみじみと味わった。

無論大変だったのは息子本人であり、ようやく治療が終わって出て来た時は精も根も尽き果てたという風で、汗だくになって弱々しい小さなしゃくり声を上げていた。抱いてやるとぐったりと肩に頭を乗せて身動きもしない。泣き疲れたのは勿論であろうが、恐らくこれが彼が初めて経験した恐怖であったに違いない。

「かわいそうに」という以外に言葉がなく、抱いてやる以外に何も出来ない。親というものはかくもあわれで、かくも無力な存在なのだと痛感した次第なのである。

ニュースでは、3才の子が池で溺れたとか、いじめで友達に殺されたとか、幼女誘拐とか、そんなことが度々報道される。高校生が同級生に殺された痛ましい事件で、その父親の「息子を返してくれ」という怒り切れない叫びが報道されたりもした。
怒りはえてして醜い姿と受け取られがちだが、それは紛う可きもない親の真実の気持ちであろう。こうした事件が報道される度に最近ではカミさんと顔を見合わせて「どんなに苦労して育てただろうに」と言い合ったりした。

人は親のために生きるのではないが、少なくとも自分が不幸にあったり、あるいは幸せにいることを、親だけは無条件で喜びまた悲しんでくれる。そういう存在がこの世に二人だけはいることを覚えておくと良いと思う。
それは生きるうえで、時に重荷に感じることもあるかもしれないが、大きな支えであることは間違いないであろうと思う。親とはそういう存在なのである。


後日談になるが、その後、この何とかくっついた息子の歯はしばらくしてまた転んだ拍子に折れた。
「大切な時だからぶつけないように注意して下さい」と医者に言われ、歯が再び折れることに異常に神経を尖らせていた我々二人は「だめならだめでもさっぱりする」と思ったのであるが、歯医者に連れて行ったところ、治療室から泣きながら出て来た息子の口には期せずして再び歯がついていた。

これはどうしたことかと説明を聞くと、「歯の根はついたから経過としては良好。もう何回折っても付けられますよ」という事だった。

これはラッキーと喜んで帰った日がちょうどクリスマス。ところがその五日後、また息子は顔面から転び、三度同じ歯を折ることになる。
正月休みの明けた日、悲痛な思いで早速歯医者に赴いたが、医者は「さもありなん」という風で、また歯を付けてくれた。ただ「あんまり暴れるからうまく付かない。また取れるかもしれない。今度取れたらかわいそうだけど、ちょっと歯茎を切ってさし歯にしましょう」ということだった。

いかにもまたすぐに取れるとでも言わんばかりだったが、「今度は大事にしような」と訳の分かっていない息子に声をかけながら帰ったのであった。

ところが歯医者を後にしてまだ20分も経っていない、その帰り道の車の中、息子が口の中で何やらコリコリとやっている。はっとして口を開けさせると何とそこからさっき付けたばかりの歯がコロリと出て来た。

徒労というのはこういうことであると思われた一瞬であった。しかたなく近くのセブンイレブンで牛乳を買い、失意にくれながらそれに歯を沈めていると、息子はせがんで買ったバニラの棒アイスを無邪気にペロペロと嘗めまわしていたりする。

誰のためにこんなに心を痛めていると言いたくもなったが、仕方がない。まさに“親の心子知らず”と言ったところである。この調子ではたとえどんなに名医が頑張ってくれたところで、徒労に徒労を重ねそうな先行きに途方に暮れた新年の始まりだったのだった。

(土竜のひとりごと:第49話)


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