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陰翳礼讃:目を閉じてみたい

『陰翳礼讃』は名著である。夏目漱石の「現代日本の開化」もそうだが、明治以降、急速に西洋文物が流入する状況にあって、日本人がその模倣にあくせくし、独自の文化文明を失いつつあることに警鐘を鳴らしている。
漆器(蒔絵)、日本の建築、女性美などさまざまな領域に関して具体的に筆が及ぶ中で、その中心にあるのは「陰翳の喪失」である。翳り、薄明かりの中に生活があってそこに意味や美、奥行きを見出してきた日本的なあり方が、明るさ、明白さの中で消えていくのを惜しんでいる。

私は、われ/\が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐のきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。

青空文庫より転載

と結ばれているが、「試しに電燈を消してみることだ」という言葉は我々の試みたいひとつの在り方を象徴的に表しているように思う。

本文全体は青空文庫で読めるので参照されたい。


例えば谷崎は、漆器の黒い色沢を「幾重もの闇が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思われる」と表現し、その美しさは「薄明りの中に置いてこそ始めてほんとうに発揮される」と書く。

また、漆器に施された金蒔絵についても「明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく」「豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである」。料理を盛る器としても陶器と違い、蓋をとった時にその中身が見えない、隠されていることに味わいがあると言う。

未知は魅惑である。

見えない腕の中を、見えないが故に「感じて」いく。
掌が受ける汁の重み
生あたたかい温味ぬくみ
生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じ
ゆるやかに動揺する汁
椀の縁ふちがほんのりかく汗
湯気が運ぶ匂い
遠い虫の音のような音
そうして「これから食べる物の味わいに思いをひそめる」のである

この部分は、まるで灯りを落とした部屋の中で女性の身体を探っていくような感覚を思い起こさせるとよく言われるが、その見えない未知を「身体感覚」を総動員して手繰り寄せていく。
薄闇の中でこそ、見えないことによって初めて「身体感覚」が発動する
闇が、見えないことの大切さがそこにある。

逆に言えば、僕らは「明るさ」の中で「身体感覚」を鈍化させてしまってきたのかもしれない・・。同じようなことを感じて、前に書いたことがある。

例えば、

君かへす朝の鋪石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

北原白秋が不倫関係にある女性と一夜を過ごした朝、女を見送る歌であるが、この歌から僕らはたくさんのイメージを呼び起こされる。
辺り一面を白く覆う雪。雪がはらはらと舞う中を次第に遠ざかっていく和服の女の小さな後ろ姿が見える。女が雪を踏む音が小さく聞こえる。「さくさく」というその足音は林檎をかむ音に重ねられ、現実にはそこにはないのだが、そこからは林檎の確かな歯触りとともに、林檎の甘酸っぱい香りや味覚のイメーージが喚起される。雪の降るしっとりとした冷気の感触。あるいは白秋の手には人妻の肌のぬくもりがあったかもしれないなどという想像も動く。そうして全体としてこの歌が、透明感のある甘い美しさを基調としながら、切ない恋に揺れる白秋の気持ちをよく伝えているのである。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、いわゆる五感が総動員される良い歌である。ただ、それはそう意識しなければ、恐らく立ち上がってこないイメージではあろう。もしそうした感覚が何も意識せず自然に働いたとしたら、どんなに豊かな毎日になるに違いない。

こんなところで例に出すのは甚だ礼を失するかもしれないが、僕は教員になった年、新任研修というやつで盲学校の授業を見せてもらった。どれも意味があるとは思われない研修の中で、この研修だけは感動したのだが、啄木の短歌を取り上げてそれを鑑賞する授業だった。
詳しくは覚えていないのが残念だが、先生が歌を読んだ後、「どんな音が聞こえる?」とか「触れたらどんなかな?」と質問していく。それに対して生徒が活発に答える。先生がその発言を口で復唱しながら板書すると、生徒は点字の機械をガチャガチャと打ってノートを取る。
そうやって生徒たちの発言を集約していくと、歌の持っている「感じ」が自然と立ち上がり、それはそのまま啄木の心情、歌の主題につながっていく・・。授業の手法としても新鮮だったが、何よりもそのイメージの豊かさに圧倒された。
僕らはそこでそんな音が聞こえていない、そんな匂いもそんな肌触りもそこで想像しない、そんな驚きの連続だった。


僕らは目をつぶってみる必要があるのかもしれない。目を閉じて視覚を遮断することで、音を聞き、匂いを感じ、触れた感じを取り戻すことができるかもしない。谷崎の二番煎じのようではあるが。


以前、テレビを見ていたら、田園の中に立ち、そこで感じる自然、その聞こえた音を音符に置き換えて作曲するという音楽家のドキュメンタリーをやっていたが、小学校中学校の音楽でそんなことをやってくれていたら、僕にも素晴らしい聴覚が育っていたかもしれない。
目をつむると音が聞こえてくる。当たり前のようでいて、不思議なことではある。


言い過ぎでなければ、視覚を遮断することは、僕らが寄りすがっている「意味」から自分を意識的に切り離す比楡であると考えてもいい。開くことだけではなく、閉ざすことにも新しい発見があるということになろう。

たまには目をつぶって、出会った頃、まだ十代だったカミさんの顔なんぞ思い出してみることも、あながち無駄なことではないかもしれない。


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