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宇野重規『日本の保守とリベラル』を読んで

前回、『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』を読んだ際に、さらに考えを深めたいと思ったことがある。それは、「主体」とは何か、という問いである。

こと日本の文脈において主体をテーマに論じた者として、丸山眞男を外すことはできない。近代日本における無責任の体系を強く批判し、来るべき近代社会の担い手としての主体を訴えた、戦後民主主義を代表する思想家である。

さて今回は、宇野重規の『日本の保守とリベラル』(中央公論新社)を読んだ感想を述べていく。

同書は、「保守」と「リベラル」という2つの概念の内実があいまいなまま無条件に対置されている日本の現状に疑問を投げかけ、近現代日本における保守(保守主義)とリベラル(リベラリズム)の思想的系譜をたどることで、「思考の座標軸を立て直す」ことを目的として書かれている。

同書では、リベラリズムを代表する論者として福沢諭吉と丸山眞男などが取り上げられているのだが、丸山眞男の「主体」について丸々一章分を割いて論じられている。

まさに私が知りたいと思っている内容が凝縮されているではないか!ということで、今回の投稿ではこの第5章「丸山眞男における三つの主体像」を中心に見ていきたい。


1.丸山眞男における三つの主体像

先に結論から言えば、丸山が論じた主体を宇野は以下の三つに整理している。

  1. 国民主体・・・各個人が単なる被治者にとどまらず、むしろ積極的に国家を構成する能動的主体となる国民国家を前提とする主体

  2. 自己相対化主体・・・多様な価値や他者との遭遇によって、自らの思考を反省し相対化することを可能にする交通空間に現れる主体

  3. 結社形成的主体・・・非政治的な精神的価値に立脚し、抵抗と自立の精神を培養した自主的結社を基盤とする主体

宇野は、これら三つの主体像が単に丸山の研究歴の時代区分によっては還元できないことを強調する。

丸山の思索の過程の最大の意義は―少なくとも最大の意義の一つは―、主体を単一のイメージに収斂させ、ある特定の社会基盤とだけ対応させることの不可能性を明らかにした点にこそある、というのが本書の強調したいポイントである。

同書、p.176-177

なるほど確かに、丸山の言う主体が単一のイメージに還元されるわけではなく、複数のレベルにおいて捉える「複眼性」を持つがゆえに「近代の主体の狭さを乗り越えていくという道を示唆している」(p.177)のかもしれない。

2.「主体のアポリア」=リベラルの「稜線」

しかし、丸山のいう主体には、もちろん理想はそうだろうが現実にはそんな主体など到底不可能なのではないか、と言いたくなるような困難さが付きまとう。

宇野は丸山の初期思想における問題を「主体のアポリア」と呼んでいる。

ここまで丸山の主体観を追ってきて思わざるをえないのは、主体の「要求の苛酷さ」である。いったい人は、なぜそのような主体にならなければならないのか。主体たろうとする意志あるいはエートスはどこから来るのだろうか。この問いこそ、丸山の全著作を貫く鍵なのである。

p.138

これは、日本におけるリベラルがあくまで「稜線」でしかなく、幅広い裾野を持つことができなかったことと無関係ではないだろう。

すなわち、原理原則を声高に唱えるのがどれだけ上手でも、その時々の状況に応じて実際に手を動かして自らの責任において秩序を打ち立てることができなければ、支持を幅広く集めることは難しい。

前者がいわゆるリベラル、後者がいわゆる保守という言葉で名指されてきたものではなかったか。

3.「保守」に通じる「リベラル」なエートス

では、リベラルが裾野を広げるためにはどうすれば良いのだろうか。宇野は同書の結論部で、そのヒントを丸山の主体論に求める。

その際にヒントとなるのは、あるいは本書で検討した丸山眞男の主体論かもしれない。丸山は、現状に埋没することなく、現実に働きかけ、これを変革していく主体を模索した。この模索は初期には抽象的な形で展開されたが、やがて日本の伝統において人々を突き動かした多様な情念の具体的な再検討へと向かっていった。丸山は、ときに封建社会における伝統的な道徳や価値意識さえもが、人々を果敢な政治的行動に導いたことを指摘した。

p.235

具体例として宇野が注目しているのは、『葉隠』において丸山が見た鎌倉武士の精神である。

丸山は、主君に対する武士の忠誠心を全面的に擁護するわけではもちろんないが、「主君が主君として振る舞わないとき、むしろ忠誠心ゆえに抵抗し反逆する精神」、「自分の大切にする価値が蹂躙されるとき、これに敢然と抵抗する精神」を前近代社会における主体性の契機として高く評価している。(p.172、p.235)

興味深いことに、宇野はこのエートスが、自由の国制を破った英国国王と対峙することを選んだエドマンド・バークの保守主義にも通じると指摘している。(p.235)

このことは、保守とリベラルとが対立概念ではなく、むしろ互いに補い合う相補的な概念たりうることを示唆している。すなわち、ある特定の価値を「保守」しようとする精神こそが、人を「リベラル」な主体たらしめる原動力となるのである。

「今日丸山から学ぶべきは、『リベラル』を抽象的な原理としてのみ検討するのでなく、人々の日常的なモラルや規範意識に支えられたものとして発展させることであろう」(p.236)とあるが、まさにその通りだと思う。

国家や社会を変えるためには、まず私が変わる必要がある。そして、すべてをリセットしたり、場当たり的に現状を維持するのではなく、何を大切にすべきか今一度立ち止まって考え、守るべきものを守り、変えるべきものを変えていくために、他者と協働しながら行動する。そのような主体が求められているのではないだろうか。

4.まとめ

以上が、同書を読んだ自分なりの感想である。

「保守」と「リベラル」という、いささか手垢が付きすぎた感の否めない2つの概念を、思想的な系譜をたどることによって刷新してみせる宇野氏の手腕は見事だと思う。

また、同書が描き出している丸山眞男の主体像、特に3つ目の「結社形成的主体」は、東浩紀の「訂正可能性の哲学」にも通じているように私は感じたのだが、いかがだろうか。

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