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人のためより自分のためを考えたら、結果的に人のためにもなっていた話

4年くらい前、"利他心"という言葉が気になっていた時期があった。

それは、そのときの自分に対して利己的だなーと思うことが多かったからでもあるし、自分のことで頭がいっぱいで、人のことなんて考える余裕も持っていないことに気付いてしまったからでもある。要するに、自分を恥じたことがキッカケだった。

りた‐しん【利他心】
自分の利害はさておき、他人に利益となるよう図る心。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

今の私が、4年前の私に言葉をかけるなら、こう伝えてあげたい。

「利他心って持とうとして持つものではないけど、めぐりめぐって利他になるってこともあるんだよ。」

たぶんそう聞いても、4年前の私はポカンとした顔をして、「それは利他じゃない!利己だ!」って納得してくれないけどね。

自分のことで、頭がいっぱいだから

人のことを気にする余裕がない。まずい。

当時の私は、そう思っていたし、今でもそう思うときがある。
でも、今と昔ではその言葉に乗ってくる意味合いが違う。

昔の私は、「それはいけないことで、恥ずかしいこと」という意味づけをした。

でも、今の私は、「まあ人間だれでも基本的には自分のことで頭がいっぱいだし、余裕がないときだってあるよ。余裕がある人に甘えよう。仕方ないよね〜」って意味づけをしている。

起こっている出来事自体は、今も昔も大差ない。
でも、肩の力が抜けた感じで、今の方が何倍もくるしくない日々を過ごせている。

そして、それがなぜできるようになったのかといえば、自分の中で"物事の捉え方"が変わったからだと思う。

勝手に決めた"しがらみ"に囚われる

少し話が変わるけれど、もともと私は完璧主義だった。
なんでも計画したいし、計画は1から10まで予定どおりに進めたいし、横槍が入るのもイヤ。

だからこそ、無意識のうちに自分の中で色んなしがらみ(=ルール)ができていた。

週に○回はバイトを入れて、週1回は部活をして、月に○冊本を読んで…って行動のルールもあれば、常に良い状態の自分として見られたいから、スッピンでは絶対に人前を歩かない…なんて気持ち(?)のルールもたくさんあった。
良く言えば、自分に厳しい頑張り屋ではあるけどね。

ただ、自分で勝手に決めたルールなのに、そのルールに囚われて息苦しいと思うことも多々あった。それでも当時は、そうやってみんな苦しみながら生きているもんなのだろうと思っていた。

そんな風に生きてきた私にとって、"人のことを気にする余裕がない自分"は、私の理想とする姿とのギャップが大きく、そんな自分が許せなかったのだ。

自分を許せないから、人のことも許せない

自分の中に、たくさんのルールを持っていたり、許せない部分を持っていたときの私は、自分が守っているルールを破る人や、自分の許せない部分と同じ側面を持っている人のことが、段々許せなくなっていった。

それはきっと、「私はルールをがんばって守っているのに!」という独りよがりや同族嫌悪が理由だと思う。

ただ、そんな私は社会に出て何度も大失敗をする。

例えば、"頼まれた仕事は早く終わらせる"、"なるべく自力で物事を進める"という自分のルールがあった。
でも自分のルールを優先したいあまり、その仕事の本質を見抜けなくて、結果的に相手の気分を害してしまったことや、お客さんからのクレームになってしまったことが何度もあった。

それまでの私は自分のルールを守りたくて、ルールさえを守っていれば、きっと周りの人も私のことを認めてくれるだろうと信じていたのに、実際は真逆のことが起きていた。

しかも、そういう何かうまくいかないことに対して、「私は自分のルールを守っているんだから、うまくいかないのは相手のせいだろう。私は、ちゃんとやったもん。」くらいに思っていた。要するに他責だったのである。

こんな風に、うまくいかないことがあると誰かのせいにして逃げていた当時の私にはたぶん、いくら"利他心"を持とうと思っても難しかったように思う。
自分のルールを守ることで頭がいっぱいで、人に気を配るどころか、何かにつけて人のせいにしていたのだから。

昔つくったルールは、今に合っていないかもしれない

あるとき、ふとそんな自分を振り返ってみたときに、そうやって一人で勝手に"しがらみ"に囚われていることこそが、自分のことで頭がいっぱいで、人のことを気にする余裕がないという結果を招いているのかもしれないと気づけたことがあった。

いつも同じパターンで怒られてない?
これって、私のせいなのかも。
昔決めたルールは、もしかして現状に合ってないのかも。

あと、これまでは他の人も自分と同じルールを背負って生きていると思い込んでいたけれど、人には人の全く違ったルールがあって(あるいは無くて)、私と全く同じルールで生きている人なんて居ないってことに気づいたのも大きかった。

なぁんだ、ルールって、もしかして全然意味がないのかも。

そのルールが作られた当初は、そのルールで成功していたかもしれない。
でも、昔つくったルールが今でも有効かどうかは見直しが必要で、不要なルールはどんどん手放していったほうが自分が楽になるんだとわかった。

(会社の業務マニュアルも、新しいツールが導入されるとマニュアルが更新されて、もっと効率的に同じ物事を進められるようになったりするよね。)

一つずつ、"しがらみ"を手放していく

だから、一つずつ意識して"しがらみ"を手放して、自分のことを許していってあげようと決めた。

仕事の進め方がわからない自分を許してあげる。
英語が得意じゃなくて、すぐ怠ける自分を許してあげる。
どう頑張ってもやる気が起きない日を許してあげる。

昔の私だったら、一人で仕事を進められないのも、怠けるのも、やる気が起きないのも、私の理想とする姿とのギャップが大きかったから許せなくて、勝手に自分にイライラして、勝手に自己嫌悪していたに違いない。

でも、許してあげられる気持ちや行動が増えたことで、まず自分自身に対する捉え方が徐々に変化していった。

「また怠けてるな〜。でも私そういうところあるしな〜。まあ、そんな私のことも好きだから、今日のところは仕方ないねえ。」

こう思えるようになってきたらもう勝ちよ。

人と接しているときに、昔の私だったら許せなかったようなことが起きたとしても、「まあそういうこともあるよね。人間だもの。」って、人のこともどんどん許せるようになっていった。

人とのコミュニケーションで悩むことやクヨクヨすることも無くなったし、周りの人もよりフラットに接してくれるようになった気がする。

ただそうはいっても、やっぱり自分にも人にも、何か許せなくて、ムキー!ってなることもある。

そんなときも「人間だもの、怒ることもあるさ。」という感じで片付けられるようになるには、かっちりルールを決めすぎず、都合よく柔軟に、日々ルールを変化させることは大切だと思う。

自分のためは、人のためになる

これまでの経験も相まって、自分のことを許して、愛してあげられるようになると、自分の中の許容範囲が広がって、結果的に他の人にもやさしくできるようになると思う。

自分を許せる範囲だけ、人のことも許せるようになる。

そう思うと、"利他心"なんて、それこそ"しがらみ"に囚われていたのかもしれないなと思う。

「自分の利害はさておき…」なんて、お利口なことは、まだまだ私にはできない。
でも、自分がより生きやすくなるために努力しようとは思える。

そして、そうやって努力した結果は、めぐりめぐって人にやさしくする、利他になることもある。

人って、意外とみんな何かしらダメなところがあるんだけど。
それって個性だから、本来、良いとか悪いとかではないと思っていて。

自分自身の個性を許して愛せる人が増えれば、イコールで他の人の個性を許せる人も増えていくはずで、お互いの個性を許せるようになれば、今よりもっとやさしい世界になるんじゃないかなって思う。

「利他心って持とうとして持つものではないけど、めぐりめぐって利他になるってこともあるんだよ。」

みんなでご自愛していこうな!!

ご清聴、ありがとうございました。

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