架空の兄と開かれた扉

 開いている扉が恐ろしくて若者は怯んだ。
 実家の古い木造の扉。スライド式でごろごろと音が鳴る。
 忌引きで帰省して、家人とともに目まぐるしく動いた日の夜だ。水を欲して自室から出ると、真っ直ぐ延びた廊下の対極にある扉が半開きになっていて、心臓に冷やかな手があてがわれたような心地になった。
 別段、秘密の部屋ではない。兄の寝室兼書斎だ。恐れるようなものも無い。
 日中、垣間見える室内は平凡な日常そのままである。畳敷きの床に、山葡萄の木で編んだ大きなバスケットが置かれ、衣類が放り込まれている。文机には万年筆と青いインク壺、壁際の本棚には雑然と並び積まれた文庫本。飾り気はなく、どこか明るみさえ感じる一角。
 だが今は。
「あなたが恐れているのは暗闇に開いたドアだね」
 架空の兄が言った。「それも、半開きの状態がいちばん怖い」と付け足した。いかな〈概念体〉といえど、他者の心まで読めるものか。でも当たっていた。
 架空の兄は廊下でタップダンスをしたり、金属質な光沢のある漆黒の背広と中折れ帽に付着したネコの毛を取って瓶詰めにし、その虹色の毛色をしげしげと眺めたりしていた。我が家に虹ネコは居ないはずだが、と若者は首を捻る。架空の兄は好き勝手している。
 若者は思い切って、架空の兄に訴える。
「もう居ないひとの姿で戸を開けるの、やめてくれない」
「あなたには、私の姿がお兄さんに見えるのだね。私は開けていないよ」
 若者は視た。架空の兄が差し示す先を観た。
 扉にかけられた手。古い木造の扉。スライド式でごろごろと音が鳴る。ごろごろと音がする。
「あなたがたを繋ぐ廊下に介在することが責務だからね」
 そう言うと架空の兄はぞんざいに廊下に座り込み、帽子のなかの星空から飛び出てきたヨダカと戯れ始めた。
 扉の向こうに兄が居ても居なくてもよかった。それは重要ではなかった。ただ、この夜はいつもより透明度が高く、室内の闇は銀河がきらめく海か、プランクトンが漂う宇宙のようで、魅入られた。
 ヨダカが飛び発った。半開きになった亡き兄の部屋へと。夜に沈みきる無限の往路へと。虚造ではないゼロの賦存空間へと。
 直線的に飛んでいった。
 それはむしろ追いかけてみたくなる。軽快なステップで。
 架空の兄は窓の外。夜空で宙返りし、歌うように告げる。もはや何者でもない姿で。
「他者の部屋。他者の領域。扉が閉まっているのはある種、正しい他者性だ。あなたが開きつつあるドアに恐怖したのはもっともだろう。ヨダカは異物だろうか。どうということもない、環境改変だ。認知的ニッチの再構築にすぎない、とは〈この世の摂理〉の常套句。編んだ先に糸があるかもわからないのに。けれど理の針穴に意図を通すのが我々の仕事だから。大丈夫。安心して。扉は個人の流入と故人の浸出を防ぐ。あなたがたの無辜の心中は保たれ、二個の宇宙は守られる」
 扉が、架空の兄の言葉と、ごろごろという音とともに閉まっていった。若者は額に噴き出た汗を拭う。台所へ行き、水道水で渇いた喉を潤した。
 茫としていると、虹ネコが食器棚に飛び乗った。どこからやってきたのか。シャボン玉のような毛並みのまばゆさを見上げる。虹ネコには触れられないとか、もし触れることができても存在論的パラドックスでぱちんと弾けて消えてしまうとか、いろいろな俗説がある。
 あの風変わりな〈概念体〉のところへお戻り、と若者は胸中で語りかけた。虹ネコが星の眸をきらめかせ、夢を撫でる尻尾を振り、気まぐれに足元へ擦り寄ってきた。
 瞬間、若者は悟った。弾けて消えるのは自分のほうだ、と。
「……破裂って、怖くはないな。安らぎのずっと近くにいくよな感じ」
 架空の兄は、月光林の時象鏡面に、滴るような慈愛の眼差しを注いでいる。鏡面には表も裏もない。架空の兄のレプリケーション。因果の小車として彼らを繋ぐイニシエーション。分体は何度でも宵の廊下へ舞い降りる。
 破れたシャボン玉が裏返る。若者は内側へ反転しながら思う。
 ひっくり返った先に、もし兄が居るのなら。兄があの平凡な部屋を出入りして生きているのなら、その姿をすこしだけ見守っていたい、と。
 内側が閉まりきると、完全な闇となる。眼前にかろうじて見える、閉じた扉の木目。
 手を掛けて少し覗くと、開いた扉が恐ろしいのか、廊下の向こう側で兄が怯んだ。

(了)

「文読堂 天使の梯子」さま(https://note.com/anlad621)の企画「その日の天使」への応募作品です。画像使用させて頂きました。有難うございます。

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